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吾校の設立は、明治34年の4月で、其歳の7月第2日躍日に在校生即ち当時の1学年生60余名が会合して、会員相互の智識を交換し、親密を図り、一致団結の精神を強固にするといふ目的で、茲(ここ)に校友会が創立したのである。会則も議決せられて、会長には斎藤正雄君、副会長には坪倉藤三郎君が当選せられ、中村茂君外5氏が幹事に選出せられた。これが吾が校友会の濫觴(らんしょう:物事のはじめをいう)といってよい。そこで2、3回例会を開いたが、在校生のみの会合で、会毎に衰頽(すいたい)するといふ傾で遂に一時中止となってしまったのである。
翌35年の5月に至って、校友会再興すべしといふ議熟して会則も改正し、組織も一変した。会長には松田校長を推戴し、名誉会員・特別会員等の制を設けて、地方名士を推挙して大に賛助を需(もと)めた。是に於て校友会の面目も一新し、基礎も確定したわけである。殊に機関雑誌として、校友会報を発行することゝした。漸(ようや)く11月に至って、第1号を発刊することが出来た。これが即ち今の岐蘇林友の起りである。丁度本年が学校創立20周年とすれば、林友雑誌の発生は1年遅れて、今年は19周年に相当するといって宜しい。そこでこの会報第1号の70余頁の小冊子が、何地で印刷せられたかといふに、信州は東端浅間山麓の岩村田町の活版所から印刷せられたのだ。勿論当時は木曽谷には汽車の交通も
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なければ、相当の印刷所もなく、僅か月十銭の会費で如何に編集各位が苦心せられたかを想像するに余りあると同時に、創業の際関係諸氏の労苦を多謝するものである。今、会報第1号に掲げられてある、坪倉君の祝辞は在校生各位の意思を代表したものと認めて、一節を抜粋して、当時の光景を追想する。
(前略)抑(そもそ)も本会は、昨年の7月に、在学生諸君と共に、尽力して創(はじ)めて設けられ、其後3、4回通常会を開いて、会員相互の親密を図りて、林業上智識の交換といふ事を謀りました。けれども本会も凡べて事物に盛衰ありといふ原則に使配せられて、種々なる原因の為めに、校友会なるものは、有るか無いか分からぬ様な姿で、一寸(しばらく)中止となりました。処(ところ)が本年4月即ち学年試験後に至って校長始め先生方より時々校友会は如何に、所謂有名無実に終るではないかと問はれても、何とも答へる事が出来ない様な訳で、誠に遺憾千万(いかんせんばん:残念なことはなはだしい)でありました。然るを本年5月吾々協議の上、本校々長を会長に推戴しまして校友会を復興し、且つ組織を改正して今日第1回の会報を発刊することになりました。吾が輩は一同両手を挙げて、校友会の万歳を祝する次第であります。(中略)此機関なる本誌が、将来永遠に発達するや否は、実に会員諸君の熱心と不熱心に依るものでありますから、会員諸君の熱誠を以て本会の為に力を尽すことにしたいのである。本日此の盛なる、開会を見るに至ったのも、本校教官諸氏の尽力によったのであるから、吾輩は深く鳴謝(めいしゃ:心からお礼をいう)して止まない次第であります。(後略)
36年、37年の2ヶ年に、第2号、第3号の会報が発行せられて、これは信州は下伊那の飯田町の活版所の出版である。38年には、第4号、第5号の会報を出して、これは北信埴科(はにしな)郡の屋代町又は更級郡の中津町の活版所から出版せられた。39年の3月は、第6号を出し、40年の7月に至って、第7号、第8号を合本して長野市活版所から出版した。41年は休刊で、42年の3月第9号を発行した。同年の7月第10号を北信は下高井郡中野町の活版所から出版した。43年の3月第11号を長野市活版所から出版して、木曽山林学校々友会々報の題号も余り永きに失するの嫌がある処から、岐蘇校友の4字に改題したのである。偖(さて)斯くの如く、足掛9年の間に、11冊の会報が発行せられた訳である。前にも述べた通り交通不便な、しかも文明の機関の完備せざる僻遠(へきえん)の地に於て、全信州の各地に渉り、冊子を印刷すると言ふ関係諸氏の心労は特筆して忘却すべからざることゝ思ふのである。況(ま)して経費の如きも意の如くならざるに於ては、尚更其の困難の状が思ひ偲ばるゝのである。幸(さいわい)校長外教官諸氏の豊富なる学識と研究とが毎号発表せられ、卒業生並に在学生諸君の着実なる研究が記載せられたるは、永く記念とすべき事柄である。加之(しかのみならず)校内の記事其の要を得て、一面本校の歴史を物語って居る。今
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創立20年周年を記念するに当って、重要なる印刷物の一つであるといはねばならぬ。
43年10月吾校創立10周年、其の間多少の変遷あるも、校基益々確く、県立となって、5年目、卒業生を出すこと、前後7回で総員200有3名に上った。本会長江畑校長鋭意内容の充実と改進に努められ、校運歳と共に隆に、面目月を追って新たになった。加ふるに新開新築の校舎も着々進陟(しんちょく)し、吾校校風は外観の美と相俟って向上発達すべき機運に際会したのである。是に於て岐蘇校友も亦この時代の要求に適応して、断然毎月1回発刊するの進歩を実現したのである。即ち印刷所を松本の交文社と定め旧態を一変し、現在林友の様式に改め第12号を発行した。今茲に改刊の辞を抄録して其の趣旨を明にする。
(前略)我校友会雑誌の創刊は、我校創立に後るゝ事2年、爾来毎年1回、或は2回之を発刊し来り、今や当(まさ)に12号を重ねんとするに至れり。亦校運と共に昌(さかん)なりと言ふべし。然れども1年の間寥々たる1、2回の発刊は学術研究の上に於ても、校友相互の親睦のはに於ても、到底吾人の渇望を充たすこと能はず。仮令(たとい)其冊子は記事の増加に依り、頁数に於て稍々多きを致すことあるも、適々(たまたま)以て新鮮発溂(はつらつ)の味を欠き、為めに興味を減殺するに過ぎず。之を要するに従来の雑誌の体裁は之を縮少して新聞体となすと同時に発刊度数を増加して、毎月1回の月刊雑誌となすの勝れるに若(し)かず。此くの如くにして始めて学術の研究上屡々(しばしば)問題を提出し、屡々暗示と刺戟を与ふるを得べく、校友相互の親睦をして一層篤(あつ)からしむべく、又記事の清新を期し得べきなり。
(中略)今や吾校創立10週年の盛運に会す。雑誌校友も亦宜敷(よろしく)旧態を改め面目を一新し、学術に論説に文芸に将(は)た雑報に、益々意を凝(こら)し精を研ぎて切磋(せっさ)の朋(とも)とし、会友の資となすべきなり。然りと雖も言ふは易くして、行ふは難し、毎月の編纂(へんさん)或は時に煩冗(はんじょう:わずらわしく、くだくだしいこと)を覚え、疲惓(ひけん:つかれていやになる)を生ずることあらん。只、冀(こいねがわ)くは堅忍不抜(けんにんふばつ:がまんづよくて、ぐらつかないこと)一意此に努力して、益々改善の実を挙げ、有終の美を収め、校運と共に長(とこし)へに隆昌(りゅうしょう:栄えること)ならんことを聊(いささ)か以て改刊の辞とす。
44年5月には愈々中央西線の開通となった。5月発行の第19号より岐蘇校友の題字を岐蘇林友と改題した。思ふに鉄路の全通と相俟って、汎(ひろ)く林業界の知己を求むるといふ意味を表現したものであらう。同年11月の第25号及び12月の第26号より郡内又は林業地の有力者、小学校長、町村長、青年会等へ広く本誌を寄贈して、林業思想の鼓吹、公有林野の整理経営等の奨励等をなしたるは、岐蘇林友の林業界に貢献したる功績の一つとすべきである。
45年7月は、第33号に達し、本号を以て明治聖代に於ける終刊となる。大正改元8月、会長安藤校長を迎へて、第34号を出す。元年9月第35号紙上に於て、謹みて明治天皇奉悼
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(ほうとう:つつしんで死をいたみ悲しむこと)詞を捧げ奉る。同年10月諒闇中(りょうあんちゅう:天子が喪に服する期間中)に新築校舎に移転す。規模宏壮旧校合の比すべくもあらず。この心機一転の気宇(きう:心のひろさ)は第36号以後の林友紙上躍如として露はる。越えて大正2年10月新築校舎工事全く竣(おわ)り、盛なる落成式を挙げた。吾が林友も48号を以て落成記念号と記念写真帖、記念絵葉書を発行して広く四方に頒布した。真に好個の記念物たるを失はない。大正3年5月昭憲皇太后の御斂葬(れんそう:死者のなきがらを地中におさめる式)に際し、林友第55号紙上謹みて奉悼の詞を奉る。
大正3年10月安藤会長に代って、七宮校長会長の任に就かれ第60号を出す。4年秋11月御即位の大礼を挙げさせらる。林友第73号を以て御大典記念号を発刊して、500有余名の会員諸君と共に、御大礼を奉祝し虔(つつし)みて聖寿(せいじゅ:天子の年齢)の無窮(むきゅう:永遠)を祈り奉る。大正5年、大正6年は月と共に号を重ね、大正7年2月は実に第100号に達したのである。
大正8年10月七宮会長辞せられて、9年3月に至り現会長岡部校長を迎へて第125号を発刊した。10年10月創立20周年の記念式を挙行するに当り、本紙144号記念号を発行するの盛運(せいうん:よいめぐり合わせ)に向った。愈々林友も齢20年の青年の域に達したのである。
顧みるに、本紙創刊以来、内は開係諸氏の繁務中、交るがわる多年に渉り終始一貫の誠意と、外は多数会員諸君の熱心なる後援賛助とに依り、月を追ひ号を重ねて今日に至りたるを深く感謝するものである。併(しか)し本紙が時代の進運に伴ひ、理想に到達するは前途尚(なお)遼遠(りょうえん:はるか遠いようす)と言ってよい。吾輩同人等魯鈍(ろどん:おろかで、にぶいこと)敢て其の任ではないが、本会の由来を考へ、将来を慮(おもんぱか)り、本紙改善の実を挙げて、諸氏に酬(むく)ゆる所あらうとする。冀(こいねがわ)くは大方の諸彦並に会員諸君、微意の存する所を諒とせられ、今後益々援助指導の労を吝(おし)まざらんことを切に希うて止まざるものである。
本文記事の文責は一に執筆者にあり。誤謬(ごびゅう:まちがい)脱漏(だつろう:ぬけ、
もれること)等の事あらば他日訂正すべし。乞ふ之を恕(ゆる)せられよ。