北海道に考古に関する学会ができたのは意外に早く、明治24年には札幌博物学会が創立され、翌25年には札幌史学会が、また28年には北海道人類学会が北海道大学にできて、アイヌ民族や遺跡の研究が始まったが、これは東京から研究者が来道するようになったためでもある。坪井は明治21年にアイヌの口碑などを調べに来ているが小金井も前述のように明治20、21年に人類学調査を行っており、両氏の来道が一つの端緒となって、にわかに北海道の先住民族やアイヌ民族の調査研究が北海道人によってなされるようになったわけである。
小金井が『東京人類学会雑誌』(後に日本人類学会・『人類学雑誌』となる)に「北海道石器時代の遺跡について」を発表したあと、河野が『北海道教育雑誌』に「北海道先史時代の遺跡遺物並に人種」(明治32年)を載せている。道南の遺跡に関する報告は、明治36年に村岡格が『東京人類学会雑誌』に「北海道渡島国森村発見の石器時代遺物」を発表したのが最初である。大正6年には函館の小田桐剣二が『人類学雑誌』に「北海道に於ける土偶の分布」を、また翌大正7年には函館にいた阿部正巳が同誌に「北海道の貝塚に関する私見」を発表した。函館の遺跡が学会誌で紹介されたのは、明治15年の『東洋学芸雑誌』「函館古石器発掘」が最初で、その雑報の中に、函館港の近くで土器、石器が出ると報ぜられているが、前記の「北海道の貝塚に関する私見」では函館の住吉町、アサリ坂貝塚、戸井貝塚などが明らかにされている。
昭和6年1月に北海道、樺太、千島に関する記事を載せる雑誌『蝦夷往来』が札幌で発行されるようになった。北海道で歴史や郷土に関心をもつ人が増えてきたためで、この年11月には北海道大学附属博物館で「第一回北海道先史時代遺物展覧会」が開催された。この展覧会は附属博物館と札幌の犀川(さいせん)会が主催したもので、土製品や石器などの遺物や人類学、先史学、考古学関係文献が公開された。この時の出品目録が『蝦夷往来』第6号の特輯(しゅう)号に掲載されているが、これによると北海道各地と樺太、千島の遺物が展示され、函館からは深瀬春一が30点余も出品している。遺物は住吉神社裏、尻沢辺地蔵堂(以上現住吉町)、開発(現在の杉並町)、湯川のほか亀田のサイベ沢、下石川野(現在いずれも函館市)、上磯の添山、戸井村(現町)、尻岸内村(現町)など渡島半島各遺跡出土の石器が出品の主なものである。このころから、北海道や千島などの考古関係の報告や論文も多くなってくる。
昭和6年4月の『北方郷土』(函館郷土研究会)には馬場脩が「函館住吉町遺跡について」を発表した。この発表で紹介された土器は底が尖(とが)っていて、貝殻の文様が付けられている変わった形の土器で、漁網用の硾石や石小刀なども共に発見され話題となった。また10月には深瀬が『旅と伝説』第4巻12号に「奥尻島紀行」を書き、遺跡を紹介している。