現在本州では、歴史考古学の分野で、山城、居館、寺院趾、庭園、経塚を始め、生産遺跡である製塩、製鉄、製陶趾などが発掘され、新しい史実が、次々と明らかになってきている。
北海道では、戸井町に館(たて)跡が確認され、また板碑が発見されたり、福島町吉岡には穏内館(おんないたて)の発掘があった。14世紀から15世紀中ごろまでの記録はさだかではないが、道南に中世の諸館が築造される以前の資料が、このように近年になってからも発見されている。
函館では、すでに江戸時代に、貞治(じょうじ)の碑、永享(えいきょう)の鰐口(わにぐち)が発見され、近年になって、志海苔の備蓄古銭、弥生町の越前古窯(よう)の擂鉢(すりばち)、七重浜の珠洲窯(すずがま)の壷などが発見されるなど、その資料も多くなってきている。
鎌倉時代初期から中期のものと断定できる資料の出土例は、まだ道内にないが、前記諸資料の出土地がほとんど函館かその周辺に限られている。そしてこれらの出土地は、日持上人が立寄り、滞在したとされる地域と偶然にも結びつくのであるが、それらについては第3編に述ぺることになろう。
貞治の碑とは、南北朝期の北朝の年号である貞治6(1367)年と刻まれた板碑であり、現在は称名寺に保存されているが、風化のため碑文などは不鮮明である。享和3(1803)年に秦檍丸(はたあわきまる、村上島之丞)が版行した「貞治の碑木版画」に出土の状況がしたためられ、それによると宝暦2(1752)年に箱館大町の榊伝四郎の屋敷で井戸を掘ったところ古碑が出土し、その下に人骨を納めた方一尺五寸ばかりの丹塗りの箱と鎧(よろい)金具、四方に九曜の紋をちりばめた鐔(つば)、長い大刀があったと書かれている。碑は安山岩で碑面は左右1対、右に阿弥陀如来礼拝図、左に阿弥陀如来来迎図と碑文がある。
銭亀沢の石崎八幡神社に保存されていた鰐口は、文化10(1813)年ごろに出土したといわれているが、青銅製の金鼓(こんく)で、表裏中央に円文の撞(とう)座があり、片面の円圏の間に「奉寄進夷島脇澤山神御寳前 永享11年3月日 施主平氏盛阿彌敬白」と銘がある。脇沢山神の所在は明らかでないが、永享年間(1429~1440)に鰐口を奉納できるほどの人がいたことがわかる。室町幕府は宝徳元(1449)年に上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の新業の鍬(くわ)鋳物師の営業を禁止し、鋳物師は和泉・河内の者のみに限った。当時鋳物師は鍬・鋤(すき)・鍋・釜を鋳造していたが、和泉・河内では社寺の鐘や鰐口までも鋳造していた。石崎で鰐口が出土したことは、鍬・鋤等の農具も移入されていたことを示唆する。
吉岡の穏内館跡の発掘調査によって濠(ごう)の面に鍬跡があるのが確認され、農耕があったと考えられたが、農具の移入も室町時代になってから多くなる。貞治の碑と永享の鰐口は、北海道で最も古い板碑と鰐口であるが、板碑と伴出した遺物から、埋葬されていたのは武士か、武士の性格をもった豪族と考えられ、鰐口の奉納者は本州と交流のあった人物であったと思われる。