幕府の蝦夷地調査

380 ~ 381 / 706ページ

赤蝦夷風説考

 先に述べたごとく宝暦・天明期は、幕藩体制が全般的危磯に見舞われる時期であり、すなわち、年貢の増徴策は、もはや頭打ちの状況になる一方、広範な地域での百姓一揆が続発し、また、流通構造が著しく変化し、幕府の財政は従来以上に極度の危胎に瀕(ひん)していた。従って幕府がこの財政立直しを蝦夷地の産物俵物貿易に求めたことも確実である。しかも、おりからこの期に入るとロシアの南下政策はいよいよ活発化し、工藤平助の『赤蝦夷風説考』などの建白によって、抜荷(密貿易)などの風評を知るに至り、幕府の北方への関心も急激に強まってきた。かくて幕府は天明5年、普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原弥六、皆川沖右衛門、青島俊蔵らに命じ、蝦夷地検分を行わせ、翌6年には、択捉得撫方面の調査をも命じた。幕府が、5年の調査に先立って松前藩に達した申渡書によると、
 
且又差当り長崎廻し俵物の儀、請負人ども、不束の儀これ有り候間、自今諸国一同に、長崎会所直買入、召限り払いの積りにて、則わち此度会所役人をも相添え差遣わし、俵物稼方の者のためにも相成り候様、場所において検分の者共、取調べ申すべく候間、此段も相心得られ、出精いたし候様、俵物問屋共へも申開かさるべく候。

 
とあって、文中「長崎会所直買入」とは、長崎俵物の直買のことで、幕府はこの調査派遣を契機に、俵物を全国画一に直買制とするとともに、箱館会所を開設し、その会所役人として河野伴左衛門、青野助十郎を任命して、前記検分役と同時に江戸を出発させている。
 このように天明度の検分は、北辺の危機感に触発された国防的な意図などはほとんど見られず、内実は、前ページ申渡書が指摘した、「請負人ども、不束の儀これ有」といういわゆる抜荷・横流しの密貿易の有無と、蝦夷地経営から生み出される経済力の実相調査が重要なる眼目であった。それがため幕府は、この調査に際し、江戸の回船方御用達苫屋久兵衛を起用し、幕吏の蝦夷地輸送を命ずる一方、アイヌ交易にも従事させ、俵物の直買をはじめ諸色産物の交易を積極的に試みさせて、その実体を把握し、進展しつつあった蝦夷地漁業生産物一般を、やがて幕府の直営下に置こうとする触手を大きく動かしていたことは否定できない。
 この調査の結果、請負人らが直接異国人と交渉していた事実は認められなかったが、アイヌをその取次ぎにして禁制の異国渡来品を軽物と称し、売買している事実をおさえ、たとえそれが手先のものの不正とはいえ、松前藩の取締り不行届の責めは免れられないものとして、後に東蝦夷地上地の口実となり、また松前藩転封の端を開いたのである。しかし、これら一連の政策は調査途中で老中田沼意次の失脚によって、一時中止された。