近江商人の排除

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 その具体的な方法として、住民の動揺を考え、場所における支配人・通詞・番人などは、おのおの希望にまかせ、これまでの通り使用することにしているが、監督を厳重にして特に監督を厳重にして松前藩と直結した近江商人団を排除し、天明期前後から成長した伊達林右衛門栖原角兵衛阿部屋伝兵衛高田屋嘉兵衛などの新たな商人を積極的に登用したところに、一つの大きな特徴が見られる。
 すなわち、寛政11(1799)年仮直轄になると、会所箱館ならびに江戸(当初は伊勢崎町、のち霊厳島に会所を建設)に設置するとともに、全国枢要の地に御用扱商人として、寛政11年、同12年には、箱館では栖原庄兵衛伊達林右衛門阿部屋伝兵衛平岩屋平八江戸では栖原角兵衛、栖原久次郎、田中屋伊助、京都では越後屋利右衛門、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎兵衛、小山屋吉兵衛、南部大畑では菊地与左衛門、新屋元左衛門、敦賀では網屋伝兵衛、飴屋治左衛門、総州銚子では十五屋伝五郎等を、それぞれ御用聞に命じている。次いで兵庫下関酒田、青森、鍬ヶ崎、岩城、平潟、浦賀、下田等にも会所を置いた。