旗艦ポーハタン号の入港

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 提督ペリーの座乗するポーハタン号と、ミシシッピー号の2艦が入港したのは4月21日であった。すなわち、『亜国来使記』によれば、
 
 四月廿一日
一 朝五ツ時(午前八時)頃、立待台場遠沖え異国船二艘相見得候旨、遠見の者より注進これあり、右船は昨夜戸井沖に汐懸りいたし候異国船にて、二艘共今朝六ツ半時(午前七時)頃同所䑺出し、石崎沖にて発砲いたし、追々地方へ向け䑺参り候趣、汐首遠見の者より注進これあり候。右は兼て異人共申聞け候火輪船にて、暫時当澗内へ䑺入、昼四ツ半時(午前十一時)頃、一艘は沖之口役所十二、三町程沖合亥子(北北西)の方え碇を入れ、跡一艘は前同様九丁程隔て子(北)の方え碇を入れ澗懸りいたし、般嵩凡そ五千石積位に相見得候。右に付、応接方藤原主馬関央代島剛平蛯子次郎橋船にて、前段蒸気船へ差遣し候処、年頃四十歳位に相見得候異人罷出で、日本通辞三畏衛廉士ウリヤムスと認め候手札差出し品々申聞け候上、去る十五日二番入津の異船え同伴いたし、兼て御達しこれあり候浦賀表よりの御書翰一通相渡し候に付、受取罷帰り候趣、遠藤又左衛門石塚官蔵申達。

 
とあり、この浦賀表からの書翰は林大学頭らの署名のあるもので、前の下田からの書状の内容に加えて、「格別上陸は相成らざる趣き申し渡し置き候得共、異人の事故強て上陸いたし、且つ測量などいたし申すべくも計りがたく候。右の節は何事も穏便に取はからい申さる可く候。」とある。事実4月15日入港の船からは、連日のように橋船をおろし、弁天崎沖から七重浜方面に至る海面を測量し、あるいは亀田浜、七重浜、有川方面に上陸して引網したり、小銃で鳥類を捕ったりしていたことは、前述の通りである。
 さて、この日の応接方藤原主馬らのアメリカ艦中における応接の次第を、『ペルリ提督日本遠征記』には、次のように記されている。
 
汽船が投錨してから僅(わず)か二三時間すると、一般の小舟が静かに旗艦に近づいて来た。艫(とも)にある例の黒縞の旗と紋章のついている大旗から推して、それは政府の御用船であることが知られた。その構造は、他の地で見た小舟と甚だよく似ていたけれども、ずっと重々しくつくられた不恰好な型のものであった。八人の漕手は揃いの着物-暗青色と白色との-を着、背には自分達の仕へている役人の紋章がついていた。彼等の小舟は櫓(ろ)で漕がれずに櫂(かい)で漕がれ、日本の政府御用船の普通速力よりも遙かに遅かった。パウアタン号の舷側に到着するや否や、数人の日本役人が乗込んで来た。彼等が到着した時、日本委員から提督が受取った手紙と支那語で書いた条約の写し一通とを彼等に提出した。彼等の述べるところによると、アメリカ人と箱館で会見するために選ばれた役人は、江戸からまだ到着していないとのことであり、又人民達も我が艦隊が今回の来訪について予め何も知らなかったし、条約の事又は下田開港のことをも聞いていないので、艦隊の到着に大いに恐駭(がい)しているとのことであった。それから日本の役人達に対して、提督は明日士官の一人を選んで上陸せしめ、当局と協議させようと思うと伝えた。

 
 この応接で松前藩吏が、箱館で会見する役人が江戸から到着していないと述べたことは事実であったが、アメリカ艦隊の箱館来訪については、藩主や藩老への通達によって、すでに承知していたことである。それをあえて知らなかったとするのは、おそらく松前藩がこの国際的な応接に、責任ある応答を出来るだけ回避する意図から出たものであろう。
 なお、蝦夷地検分のため北上中であった目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正が、松前藩の依頼によりペリー応接のため、属僚安間純之進平山謙次郎らを派遣し、安間らが箱館に着いたのは5月5日のことで、そのことについては後述する。