箱館港掟 |
一 此港に入船には、沖の口番所前波止場の外、出入を許さざる事。 |
一 所用あらば、沖の口番所に至り申出ずべき事。 |
一 船中欠乏の品、役人へ申立候はば、当所有合わせの品は奉行所より相渡すべし。 |
但相対を以て、贈答並びに売買は相成らず候事。 |
一 奉行所の差図を待たずして、上陸致す間敷事。 |
一 寺院市中等、遊歩致し候節、往来の外、人家並びに道なき所へ立入間敷事。 |
一 海上にて我邦の船へ近付、密買致す間敷事。 |
一 船々此港出入の時、発砲致す間敷事。 |
右条々相守るべし。 |
年 日 |
箱館港口之図 「松前紀行」より
開港は安政2年3月から始める約束であったが、これに先立ってアメリカ鯨猟船が3隻入港した。すなわち2月14日1隻入港し、薪水を補給して17日退帆した。22日もまた1隻入港、28日入れ違いに更に1隻入港し、いずれも欠乏品を要求したので、これを供給した。開港幾日もなく3月5日には、さきに下田で遭難したロシア人159名(ディアナ号乗組員)を乗せた米国商船が寄港したので、竹内奉行がこれに応接した。その後12月まで入港した外国船は30余隻に及び、その過半数はイギリス軍艦で、アメリカ、フランス両国軍艦、アメリカ商船および猟船がこれに次ぎ、ロシア船は1隻もなかった。これはクリミア戦争による影響で、翌3年3月戦争が終わると、同年秋からロシア船の入港が多くなった。初めは外国船が入港すると、市中を警戒し、火の用心を厳重にし、あるいは演劇を中止させ、あるいは祭礼を延期させるなど、種々の命令を発したので、市民の迷惑はひとかたならず、また軍艦入港の際には港則を無視して祝砲を発したところ、市中の馬は驚きはね、犬は吠えてかけ回り、市民は今にも戦争が始まるかとあわてふためいたが、度重なるにつれ、ようやく外国人にも慣れ恐怖心も去り嫌悪の情もしだいに薄らいだ。
外国船に供給する物品はすべて官吏の手を経て渡す約束であった。そのため箱館奉行は佐藤忠兵衛、山田寿兵衛、杉浦嘉七の用達を指定し、これを取り扱わせたが、この3人は不慣れであったため、更に酒屋八郎右衛門を加えて4人とした。その後漸次に習熟したので、八郎右衛門は4年5月限りで取扱いを免じられた。物品はすべて元価に3割5分を加えて売渡し、そのうち2割を用達に与え、1割5分は官の所得とした。しかし物品によってはその供給がすこぶる困難で、たとえば畜産物の牛の希望が多く、最初は国禁の故をもってその売渡しを拒んだが、その要求が強く、やむなく近村から買上げて供給した。後には南部牛を移入して官自らこれを飼育して渡さねばならなくなり、谷地頭に牧場を設け豚・鶏なども飼い、近村に馬鈴薯の耕作を奨励したのも、みなその需要に応ずるためであった。供給品の代価は金銭で支払わせるのが例であったが、都合によっては物品をもってすることも許し、安政4年以後は、しばしば官から昆布、漆器など欠乏品以外の商品を渡し、彼らから帆木綿その他の入用品をもって代償させたので、若干ではあるが貿易が官の手で行われている。