安政六年六月二日は、箱館開港の期日たるにより、当日午前四時第一着に来りて投錨せし外国船は、米国帆船モーレー号なり。然れども箱館最初の貿易は、此船によりて行われざりき。次に入港せしは、英国帆船イリサメル号にして、同国商人アストン氏及び其番頭清国広東人陳玉松乗込来れり。此二人は上陸のうえ、偶然自分の商店の前に佇(たたず)み商品中の寒天及椎茸を一覧したる後、懐中より畳紙に包みたる物を取出し、之が買入を為さんことを求めたり。之をみるに、数年を経過したりと覚しく、香味色沢変わり居りて、其何品たるを判別する能はず、之を二人に問えば、海帯なりと答う。由りて自分は此見本を携え、亀屋七郎右衛門氏(博学者)の宅に至り、鑑定を乞いしに、海帯即ち昆布なりと云う。是に於て三石及び十勝産の上等昆布を彼等に示したるに、彼等は見本に違えりとて承知せず。止を得ず自分は該二種の昆布十四本づつ贈り、帰国の上、確め来らんことを求めたり。彼等は目的の海帯を買入ること能はざるを以て、大豆を買入るべく相談あり、会々南部産大豆を積みたる船在港せるを以て、之を一石一両程に買取り、百斤に付一弗に売る約定をなし、千石売渡せり。此大豆掛渡せり。此大豆掛渡しには、自分は日本秤を用いんと云い、陳は支那秤を用いんと云いしが、遂にアストン氏の仲裁により、其所有する西洋秤を用いたり。是れ開港最初に行はれたる貿易なり。 |
イリサメル号は七月十六日出帆せるが、八月十四日再び入港し、陳は先に持行きたる昆布は海帯なるを以て、何程にても買入るべしと申込みたり。此時昆布の価は、場所買付幌泉産百石(二万五千斤)六十八両にして、之を箱館に積来りて百両に売るは、非常の困難とする所なりき、自分は此場合に於て、船手上越後権右衛門より、百石百六十両に買取り、百斤一両即ち、百石二百五十両にて千石を陳に売渡したり。斯くて陳は出帆の際、我が二分金三千両を自分に託し、今後何程にても、昆布を買置くべしと言いて、同月二十日解纜(らん)せり。是れ箱館より昆布を清国に直輪せし嚆矢(こうし)なり。此度イリサメル号入港の際は、陳の掛引にて直に港内に入らず、台場沖山背泊に投錨し、船影を市人に見せしめず、昆布の商談成りて後始めて公然入港したり。是れ全く昆布価格の上騰を防ぐ手段にして、亦以て其商機に敏なるを察するに足る。 |
斯くて自分は三千両の附託金に対し、昆布買入の事に奔走したれども、前回の如き価格にては売人なく、場所買付九十八両に騰貴せり。さればとて実際に之を売買する者あるにあらざりしが、自分は問屋白鳥の手代半之助なる者より、百石二百両にて六百石だけ漸く買付を為し、外に六、七百石をボツボツ買入るることを得て、都合千三、四百石を買収せる折柄、同年九月二日に至り、陳は凡四千石積の三本檣(ほばしら)帆船にてアストン氏及び支那人四、五名と共に入港せり。自分は昆布価格の騰貴せる事実を告げ、三千両の附託金に対し、百石三百両の相場を以て、漸く三千三、四百石を買入れたるが、此上は更に価格を上すにあらざれは到底自分の力に及ばずと述べたるに、陳は宜し、努力せよと言いたり。乃(すなわ)ち自分は三百両にて買付を為し、彼に売るには四百両を以てし、彼の四千石積帆船は昆布を満載して出帆せり。 |
是より後、英国デンデコンパニーの支配にポーターと云える英人あり、箱館に来り昆布買付をなし、居留諸外人も亦競いて買入を為したるより、昆布の価次第に騰貴し、遂に百石五百両の高直を見るに至り、此年中は該相場にて売行きたり。(『柳田藤吉翁経歴談』) |
最初の外国貿易は以上のようにして開始された。