箱館奉行の、沖ノ口に出入りする貨物の諸税は、前時代と大差はなかったが、ただ嘉永5(1852)年松前築城のため、従来の二分口銭を3か年の間三分口銭としたのを、安政元年旧に復して箱館では二分口銭にした。しかし松前家の所管である松前、江差では藩の財政逼迫のためこの減税は行われなかった。また、天保6(1835)年3割の免除を廃した酒役、3割5分の免除を5分に改めた魚油役を、安政2年正月から旧に復して取立てを軽減した。
問屋小宿の制は従来と同じく株仲間で、船手に対する専権を握り、移出入の商品はことごとく問屋の手を経たが、松前藩復領の時に悪弊が増長し、貨物の数量を正しく記さなかったり、あるいは貨物の価格を偽り、沖ノ口口銭を逃れて私利をはかる不正の行為などもあったので、安政3年箱館奉行は支配勘定格調役下役元締山口顕之進にこれを調査させ、同年9月大改革を行い、新たに問屋取締役を設け、町年寄蛯子次郎を任じた。そして各場所荷物送状はもちろん、積合わせ荷物改方、売捌荷物の入札などにも立会い取締りをなし、一方にはこのように急に取締りを厳しくしては、船手の者も困難するので、沖ノ口口銭は売買価額より1割下げの価格を基礎として上納させることにし、問屋・小宿一同を戒め、誠実に営業をさせるようにした。こうして従来問屋やその他の者から沖ノ口役所に差出す願書には、問屋頭が連印し、それに問屋取締役が奥印して提出させた。なお、万延元(1860)年閏(うるう)3月沖ノ口口銭の名称が問屋口銭と間違われるおそれがあったので、沖ノ口口銭を沖ノ口役銭と改め、口銭は問屋口銭だけとした。