開墾

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 箱館地方の農業は、前述のごとく前時代から近郷において若干の耕作が見られ、安政3(1856)年、箱館奉行が松前藩から引継ぎを受けた箱館付き諸村の耕地は、水田116町9反5畝歩、畑120町9反3畝余歩であったが、水田は連年不作が続き、わずかに稗などを耕作するに過ぎず、租税は1反歩180文の規定があってもこれを徴収することができなかった。
 再直轄後、箱館奉行は再び農業の振興に当たった。前直轄時代松前奉行支配調役下役元〆直一の子であった庵原菡斎は、安政元年志して竹内奉行に従って箱館に渡り、かねて蝦夷地事情や農芸に精通しているところから、同年冬、この地方跋(ばっ)渉して地勢、地味を調べ、銭亀沢の奥、汐川の沿岸亀尾の地を選んで出願し、翌2年4月、家僕および雇人を指揮して開墾に着手し、田およそ4反歩、畑およそ6反5畝歩を開き、また、下湯川字馬喰谷地にも田2反歩、上湯川字ババフトコロに田8反歩を開いた。田には武州二合半領種「六分早稲」、大野村種「赤稲」、玉川種「スナズモチ」、越後種「モリクチ」「エビ手」などを試作し、畑には種々の穀類、豆、蔬菜、果樹の種苗などを栽培した。そしてこの年は播種(はしゅ)の時期が遅れたにもかかわらず、気温が高く降雨が少なかったので稲はよく実り、種類によって1坪当り玄米約9合(反当り2石7斗となる)の収穫を挙げ、畑作も相当の収穫を見た。このように菡斎の開墾地は、すこぶる成績がよく農夫の数も増加したので、箱館奉行はこれを官費経営に移して御手作場とし、菡斎にその差配を命じ、村々の勧農方を担当させた。
 また亀田村惣百姓代松右衛門らも、村内の開墾を願い出たので、安政3年大縄において19町4反2畝歩を割渡したのを初めとし、市中の用達問屋、その他の有力者が、官の諭旨に応じ、湯川道路のそばに未開地の割渡しを受け、各自農夫を雇入れ、住居を建て、食料を給与して開墾に従事させた。人々はこの地を呼んで開発といい、ついにそれが地名となって後々まで残った。その他、七飯村や藤山村に多かった在住の士が、自ら開墾したりあるいは農夫を雇って開墾している者もあった。ことに在住中島辰三郎は農事に熟練していたため、勧農掛に命じたところ、すこぶる人望があって諸村を巡回して教諭し、村民は分限に応じて開墾に努力はしたけれども、何分にも資力が乏しく耕地の拡張ができなかった。そこで辰三郎はこれを奉行に申請し、安政6年から新開地1反歩につき金2朱2分、用水路掘割100間につき金1両の割合をもって貸し付け、10年年賦で返納させることにし、新墾地は5か年の鍬下を与え、その年限中に年賦金を滞りなく納めた者は、6年目に検地の上課税額が決まると、残りの年賦金はこれを棄損して借人に与えることに定めた。こうして文久2年までにこの方法で官金を借用した反別は260余町歩に達した。