箱館の動揺

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 内戦へ突入した京都大坂の情勢が箱館に伝えられたのは正月も終りに近づいた頃である。箱館奉行杉浦兵庫頭の日記(「日次記」杉浦俊介氏蔵)によると、まず25日に飛脚屋島屋方に、杉浦奉行が「京摂新報」と題を付けて記録した「上方大変」で始まる書状が届く。「大坂より上様御上洛被遊候御先手会津様松山様姫路様御勢三万人斗と申事、就夫京都より伏見ノ御固、土州長州雲州薩州肥後双方御出馬ノ處、如何成訳歟戦争と相成、伏見淀鳥羽枚方迄も焼払、未タ火鎮らす候、尤所々ニテ大戦ひ死亡沢山、京都町首持歩行困乱甚敷、言語ニ述かたく、四日八ツ時頃ニ仁和寺宮様御狩衣ニテ錦御籏弐旒警衛三百人斗ニテ御下り、殊ニ戦場と相成、行末如何と心配仕候」とあり、上様(慶喜)が会津藩、松山藩、姫路藩等3万人ほどの軍勢を率いて京都に向かったところ、土佐藩、長門藩、薩摩藩、松江藩、熊本藩の人数が京都から伏見にかけて守備に就いており、突発的に戦闘となった。伏見から淀鳥羽枚方にかけての地域が焼き払われ、未だ鎮火に至っていない。所々で大規模な戦闘があり、多くの戦死者が出て、京都市中を首を持ち歩くものまでおり、混乱は極限に達している。4日の昼過ぎには仁和寺宮が錦籏2流と共に出馬、行く末はどのようになるのかと心配しておりますとの情報で、征討大将軍となった仁和寺宮が錦籏2旒と共に登場するなど、かなり精度の高い情報であるが、その後に「勝敗ノ處不相分、跡便り相待申候」とあり、まだ戦争の帰趨には言及されていない。次いで28日に「大政復古の大号令」についての詳細な情報も「御所より被仰付書」として入っている。三職に任命された人々も次の通り記載されている。
 
総裁有栖川宮(幟仁親王)
議定仁和寺宮(嘉彰親王)山階宮(晃親王)中山前大納言(忠能)
正親町三条大納言(実愛)尾張大納言(徳川慶勝)越前宰相(松平慶永)
土佐前少将(山内豊信)薩摩少将(島津忠義)安藝少将(浅野長勲)
参与大原宰相(重徳)万里小路弁(博房)長谷三位(信篤)
橋本少将(実梁)尾藩三人越藩三人
藝藩三人土藩三人薩藩三人
注 議定の中御門中納言(経之)と参与の長谷三位(信成)、岩倉前中将(具視)が落ちているのみで、かなり正確な情報である。かっこ内の親王名等は他の史料で補ったものである。また各藩の3人とは次の各3人で、この日(2月9日)朝敵を許されたばかりの長州藩(山口藩)は含まれていない。
尾張藩 丹羽淳太郎(賢) 田中不二麿 田宮如雲
越前藩 中根雪江 酒井十之丞 毛受鹿之助
安藝藩 辻将曹(維岳) 桜井与四郎(元憲) 久保田秀雄
土佐藩 後藤象二郎 神山左多衛(郡廉) 福岡藤次(孝弟)
薩摩藩 岩下佐次右衛門(方平) 西郷吉之助(隆盛) 大久保一蔵(利通)

 
 さらに2月4日になると、正月9日付の織田信重(勘定奉行兼帯の箱館奉行…『新北海道史』では信発)と新藤鉊蔵(前年10月まで箱館奉行並)から京都大坂の形成を伝える「戦争ノ顛末は分り兼候」という注が付いた内状が届き、同じ日に箱館奉行江戸詰組頭富田類右衛門らからは「当正月三日八ツ時大坂より御上洛御途中徳川征伐ノ勅命有之候由ニテ、薩長土藝伏見市中焼払、会津細川彦根雲州桑名大垣と戦闘有之、御勝利ノ段町飛脚ニテ外国奉行江報告有之由」と、鳥羽伏見の戦いで徳川方が勝利したとの急報も入り、混乱していた。ところが翌々6日、イギリス商船カンカイ号が入港、神奈川奉行支配組頭宮本小一郎らからの内状が届けられ、鳥羽伏見での敗戦、前将軍慶喜の江戸帰府などの詳報を知ることとなった。
 そこへ11日には浜益・留萌等の開拓を担当していた庄内藩(先の江戸薩摩藩邸焼打ち敢行主力部隊で、鳥羽伏見の戦いの導火線となった藩)の箱館留守居所に国元から急使が到着、人員総引き上げを命ずる早駕篭を支配所(浜益・留萌)へ飛ばしたため、箱館市街は浮説紛紜として騒然となった。このため13日には人心の動揺を静めるべく町会所を通して「上方筋騒々敷趣ニテ市中人心動揺候……万一乱妨ノもの等有之候ヘバ、御役人様御差図ニ隨ヒ取押、手余リ候ヘバ取込ニ致候テモ不苦、弥々産業相励候様能々相心得、一同ニテ相守候事」(「函館公文集」巻3)と、上方での騒乱の報が伝わって市中が動揺し、乱暴を働くものが出現することもあると思うが、役人の指示に従って取り押さえる様、仕事には励む様にとの町触も出された。
 また、諸外国との交際に関しても朝廷が直接条約を締結することになったとの情報もあり、杉浦奉行は、幕府による秩序の維持に不安と困難を感じ、13日取りあえず次のような血判を押した緊急処置対策(「当地心得方ノ儀急速奉伺候書付」)上申書を定役元〆坪内幾之進(用務を終えて3月23日帰函)に持たせて幕閣へ上申すると同時に、組頭以下の属僚ヘも趣意の徹底を図った(「橋本悌蔵箱館行御用留」『地域史研究はこだて』第5号より)。
 1、賊船等の襲撃には徹底抗戦すること。
 2、朝廷の命を奉じた軍艦が平穏に引き渡しを要求した場合は引き渡す予定であるが、幕閣の指示を待って実行すること。
 しかし、江戸からの指示を待つ間にも情勢は緊迫度を増した。蝦夷地警衛の任に就いていた諸藩の動きは不穏な様相を呈し始め、商人などは官吏を軽侮するようになり、火付盗賊も横行し、入港船の激減で生活物資の入荷が絶え物価の急騰は、人心の不安を日増しに増大させていった。
 そこで杉浦奉行は、19日4人の組頭(荒木済三郎、高木与惣左衛門、山村惣三郎、中沢善司)を召集、終日議論を尽くした。杉浦奉行はこれまでの方針を堅持、箱館に止まり朝廷からの派遣者に無事引き継ぐことを主張し、高木は奉行の意見に同調し必死に他の3人を説得したが、荒木、山村、中沢はまず諸事を警衛諸藩に預け引き上げることを主張して譲らなかった。翌20日にも荒木以下に「断然不動」の方針を説得、この旨の上申書を幕閣に提出説明する使者として、荒木済三郎を指名、熟談に及んだ。翌21日荒木もようやく杉浦奉行の方針に服することを了承、杉浦奉行にその旨を伝えてきたので、この日「市民共平穏為致度念慮より諸所へ警衛人数差出し、精々鎮撫ニ力を尽し候儀ニ付、此上とも狼籍等有之節は死力を尽し保護いたす心得ニ付、彼是ノ掛念なくいたし安居平常の通り家業相営み可申候」(「函館公文集」巻3)と、治安維持の保障と家業継続を推進する触書を出すと共に、杉浦奉行の決断並びに現況説明と蝦夷地経営の展望に関する上申書(2月27日付)を作成した。山村、中沢両組頭にその旨を説明したが、彼らは帰府を懇願する姿勢を変えなかった。その後も荒木の出府について種々議論があったので、調役一同を集めて奉行の意図の説明を行った。28日御雇英船カンカイ号で、支配組頭荒木済三郎は杉浦奉行の建白書を持参して江戸に向かった。この時、有合せの1万両と奉行所の米も、定役木下官一郎、足軽好本保右衛門を添えて江戸に送った。
 一方幕閣の蝦夷地経営担当者は、前将軍慶喜は恭順を布告して謹慎した時点ではまだ蝦夷地経営の強化自立策を検討していたようで、老中稲葉美濃守は2月12日、元箱館奉行支配組頭で蝦夷地の事情に精通していた一橋家郡奉行の橋本悌蔵箱館奉行並に任じ、箱館の現況視察と運上金の増徴(慶応4年は7か年季の場所請負運上金の年季切り替え年となっていた)などのため、箱館への出張を命じていた。
 箱館奉行所の年々の会計は、慶応年間には約10万両で、この内9万両程を場所請負運上金等の蝦夷地収納物でまかなうようになっており、慶応3年からは江戸からの差下金をも断る程で(「箱館蝦夷地在勤中諸用留」『函館市史』史料編1)、自立経営を摸索していたらしく、このため運上金増徴を最重要事項と考えていたと思われる。
 3月2日、箱館への出発準備を整えていた橋本悌蔵のもとに、杉浦兵庫頭からの上申書(2月12日付)が到着した。橋本はこの上申書を幕閣に提出し、「御恭順ノ被仰出も有之儀ニ付、穏ニ取斗当地ヘ可被相伺候、若左様難相成場合ニ至り候ハヽ伺ニ不及、勅命ノ趣遵奉致し、場所引渡、支配向ノ者一同召連、出府候様可被致候」(前掲「橋本悌蔵箱館行御用留」)と朝命の遵奉と恭順及び役人の江戸引き上げの指令を受け、この指令書を持って箱館へ赴いた。橋本悌蔵は支配組頭宮田文吉、御勘定阿久沢銈銈次郎らを連れて3月16日に蒸気船奇捷丸で箱館に入港(品川出帆は6日)した。しかし、橋本悌蔵箱館に到着した時には、人心の動揺の鎮静に心を砕いていた杉浦兵庫頭は、請負人の度々の歎願に押され、自己の責任をもって運上金の増徴を見送り、2月29日「諸場所請負人、来巳年より七ヶ年季受負諸事是迄ノ通可心得申渡ス」と年季切替を行ってしまっていた。また、蝦夷地警衛諸藩の動向は日増しに不穏になり、商人達の不遜な言動など幕府の権威の失墜は決定的になっていた。