清水谷総督の赴任

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 京都にあって赴任準備を進めていた清水谷公考は、閏4月5日総督に昇任し、この時「蝦夷全島一切御委任ニ相成候間、機宜見計無二念尽力可有之候事。但内国非常ノ大事件並ニ魯西亞交際中非常ノ大事件ニ至リテハ伺ノ上所置可*有之候事」(「清水谷家文書」東史蔵)との沙汰書を受けた。ここでも特筆すべき内外の重要問題以外は箱館裁判所総督に蝦夷地に関する諸政務が委任されていることが確認されている。この時清水谷公考は内国事務局監督徳大寺実則から、(1)箱館裁判所が設置されたからは、従前内外の政務多端のため旧幕府が止むを得ず不行届の事もあったやに聞いているが、王政一新の時となったので、内地は勿論蝦夷地の開拓にも漸次着手の予定であるから、新政府の意図を十分に知らしめ、万民の生業を安堵せしむることが肝要であること、(2)開拓は素より急務ではあるが、実際に着手することは容易なことではないので、議論理屈ではなく現地の情態を熟察し、着実の処置が肝要で、井上石見其外を添えるので諸事十分に評議し後顧の憂いをなくすよう取計らい、重大難事件は太政官代と協議すること、(3)ロシア人と雑居の地は、現在外国交際については深い思召もあるので、ロシア人其他外国人との外交も「忽卒ノ取計」らいとならぬよう注意すること、(4)現在会津藩等が暴威を募り官軍に対し抵抗しているが、追々征討兵を差し向けるので、蝦夷地へ渡る者もあるかも知れないが、奥羽地方の人民塗炭の苦しみに陥いっている。追々征討兵を差し向けるので、蝦夷地へ渡る者(抵抗者など)がある場合は守衛の藩々等を指揮して速に鎮定すること(「清水谷公正家記」『復古記』4)などと具体的な指示を受けている。
 実務担当責任者も井上石見、松浦武四郎(彼は清水谷総督に同行せずこの時期の動向は不明)の両名が内国事務局判事に、岡本監輔、山東一郎、小野淳輔、堀真五郎、宇野監物(のち巌玄溟と改名)の5名が同権判事に任ぜられ陣容を整えた。
 *「所置有之候事」とあるが、「所置可有之候事」の誤り・脱字

箱館裁判所総督 清水谷公考

 赴任するにあったて赴任費用および開拓資金を確保することは箱館裁判所首脳にとって最も切実な問題であったが、東征軍派遣資金の確保に苦慮していた新政府から引き出すことはほとんど不可能な状態であった。そこで裁判所首脳は、2月27日の「建議書」で建議した資金調達法である「金穀ノ類ハ紀州、江州等ニ於テ彼地(蝦夷地)ニ引合御座候町人共尽力仕度内願ニ及候ハ多ク御座候テ、内々支度ハ粗調居候間」(「内国事務局叢書」『復古記』2)を実践することになり、近江商人珠玖清左衛門を箱館裁判所用達に任じ、蝦夷地産物取扱商人へ献金の周旋を依頼した。「建議書」でも述べている通り、商人たちの内諾を得ていたものらしく、清左衛門の尽力により箱館産物問屋から献金を受けることができ、赴任費用の目途も立ちようやく京都を出立できることになったのである。
 清水谷総督の一行は、閏4月14日京都を出立、20日敦賀から長州の汽船華陽丸で海路箱館へ向かった。24日江差に着岸、25日山東一郎、小野淳輔の両権判事を陸路先発させ、旧幕府箱館奉行が平穏引継ぎに腐心していることは確認されてはいたが、不穏な動きがあるとの情報もあった箱館表の動向に細心の注意を払った。翌26日午後、杉浦奉行と小野淳輔との間で五稜郭管理引継ぎを終え、五稜郭の門番も松前、南部、津軽3藩の手に移り、番士も交代、船で箱館港に入っていた清水谷総督一行は、称名寺で休息後夕方遅く五稜郭に入った。