脱走軍支配下の箱館

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 箱館に入った脱走軍がまず行ったことは町会所を通して触書を出したことであったように、箱館奉行所から箱館府へ引継がれていた諸務はすべてそのまま継承した。ただ「苟生日記」の11月10日の項に「市中一万金借貸ノ話アリ、亦タ可笑(翌十一日に金一件年寄ヘ談、都テ了解)」とあり、この時杉浦嘉七の5000両を始め総額1万両が臨時御用として運上所へ納められたように、脱走軍は箱館占拠早々から軍用金の欠乏に悩んでいた。「下士以下月々僅か金一円を以てするに過ぎず、其士官以上は皆無給なりき」(「感旧私史」)という状態であったのである。箱館市中には翌2年4月にも「即今ノ場合ニ至リ繰合向必至ト差支候ニ付無余儀別紙ノ通(総額一万両余)市中ノ者共ヘ用金申付候」(明治2年4月「御用金姓名書」)と御用金の差出しが命ぜられている。また場所請負人へは年2回上納の運上金の一括前納が命ぜられた。さらに八幡宮や神明宮などの縁日祭礼の物売りや見世物からは運上(代金の1割5分)、公認され毎夜夜半まで博奕が行われた博奕場からは仕入金(テラ銭よりの上納金)が徴収され、市中の「後家、小宿、居酒家台店、其外小前娘共内夜励等に罷出」ことを知ると、彼女らに切手(営業鑑札)を発行して運上(1人前月1両2朱)を取ったという(「箱館軍記」『函館市史』史料2)。この稼業の切手と運上は「誠に迷惑やら恥ずかしいやら、一向市中淋しく、切手相渡りし上は励不申候ては運上金の出処無之、困り入申候」と記されている。「渡島国戦争心得日誌」には「密売女の運上を初取」と記されている。すべての営業が運上の対象となったわけである。
 箱館市民は、脱走軍の箱館占拠当初は早急な新政府軍の反攻を予測、店屋敷が戦火に包まれることを恐れ、貴重品などは穴土蔵に仕舞い、店の品揃えも淋しい状態であったが、新政府軍の箱館渡来が延引となり、脱走軍がいうように新政府軍の渡来はないとの風説も広まり、明治2年の正月を迎えると商売の規模を広げる向きも出てきたという。
 この頃から、五稜郭吹出しの新金(私鋳金)で買物をする者も現れるようになり、取り引き上のいざこざも起き、「贋金を吹立通用に、然共当国中は通用致候得共、他邦へは通用不相成、諸人の難渋申斗り無御座候」(「渡島国戦争心得日誌」)という状態となった。「感旧私史」には元年12月中より「我軍費用の支へざるを以て二分金を鋳造すること若干万円」と記されている。新金鋳造高は不明であるが、戦後、箱館府は、「鋳立候見苦敷贋金二分金、一朱銀取雑凡四万両モ可在之歟ノ趣ニテ追々引替願出候向モ有之」(「両京各府県往復」道文蔵)と行政官へ報告書しており、この4万両がすべて脱走軍鋳造のものかどうかは不明であるが、私鋳金で市中が非常に困惑したことは間違いないようである。戦後、これらの贋金整理のため外務省から北代忠吉が派遣され、正金との引替業務などを担当した。
 また、市中取締まり強化のため「外海岸大森浜より箱館澗へ柵を結廻し、町端に関門を拵へ往来を喰留め通行の人を改め、無鑑札にては出入不相成候」(「渡島国戦争心得日誌」)と、箱館の町端一本木に関門を設け、通行人改めを行ない、出入りの際には町代の書付が必要で、一本木の町代笹屋方でこの書付と引替に受け取る印鑑紙(1人に付24文)で通行できたという(「箱館軍記」)。
 一方、脱走軍の行状については、「役付のもの追々茶屋遊び、或は後家、小宿、酒店等へ入込、金銀を水の泡に遣ひ、又は下部のもの共市中をゆすり歩行」(「箱館軍記」)、「徳川祖先従来無之仕法ヲ立、或ハ賊徒ノ者共市在家ヘ入、押借乱暴虐言語ニ述ベカタシ」(「渡島国戦争心得日誌」)などと記されている。実際、丸毛牛之助は「感旧私史」の中で、明治2年の初めに山ノ上町の妓楼宮川屋へ登楼し、そこで逢った松前の娘のもとへ数度通ったこと、また市中の店へ金を借りに入った彰義隊士佐野豊三郎が慚愧悔悟して自刃したことなどを記している。