郵便役所設置前の函館事情

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 幕末期箱館奉行江戸との連絡のために定期飛脚便(定便という)を月数度往復させていたが、文久元(1861)年7月、江戸瀬戸物町の飛脚問屋嶋屋佐右衛門に陸路御用物馬便(月に馬2疋までは無賃)を任せることとなった。嶋屋は月6度往復12度(毎月2と7の日)の定飛脚を開設することとなり、箱館大町1丁目に出店を開いた。その飛脚料は表2-15の通りである。この表は公用、町方請負両方の料金体系となっており、明治元(1868)年3月、箱館の引継ぎに関し箱館奉行が苦悩する中でも、江戸箱館の連絡には「陸路嶋屋便ニテ差出候得共無滞通行有無モ難計候」(「橋本悌蔵箱館御用留」『地域史研究はこだて』第5号)と御用状も陸路は嶋屋便とあり、陸路飛脚は主に嶋屋担当という体制はかわりがなかったようである。
 
 表2-15 定飛脚賃銀表 (箱館より江戸表迄定飛脚御用賃銀)
金子送付料
公用分
町方請負分
送付金額
賃銀
銭換算概算額
賃銭
4月~9月
10月~3月
4月~9月
10月~3月
4月~9月
10月~3月
 
1両迄
 
A

3.18

3.67

360

416

280

353
B
4.22
5.13
478
581
372
465
3両迄A
4.09
4.98
464
564
367
458
B
5.57
6.79
631
770
494
618
5両迄A
5.23
6.37
593
722
467
584
B
6.95
8.47
788
960
617
771
7両迄A
6.27
7.64
711
866
557
697
B
8.38
10.19
950
1,155
741
927
10両迄A
7.23
8.80
819
997
640
800
B
9.62
11.71
1,090
1,327
852
1,065
15両迄A
8.31
10.12
942
1,147
736
920
B
10.55
12.85
1,196
1,456
980
1,225
20両迄A
9.54
11.62
1,081
1,317
846
1,058
B
12.61
15.35
1,429
1,740
1,126
1,409
25両迄A
10.99
13.38
1,246
1,516
975
1,218
B
15.28
18.6
1,732
2,108
1,354
1,693
30両迄A
13.03
15.86
1,477
1,797
1,154
1,440
B
18.34
23.33
2,079
2,644
1,624
2,030
100両二付A
37.95
46.20
4,301
5,236
3,400
4,250
B
56.92
69.30
6,451
7,854
5,100
6,375

 Aは小判・弐分判・弐朱金送付料 Bは1分銀・1朱銀送付料
 
荷物・御用状
御状箱送付料
公用方
町方請負分
種目
賃銀
銭換算概算額
賃銀
4月~9月10月~3月4月~9月10月~3月4月~9月10月~3月
 
 荷物100目迄

3.34

4.07

379

461

290

371
   200目迄
4.69
5.71
532
647
416
520
   300目迄
6.34
7.72
716
875
562
603
   400目迄
7.98
9.71
904
1,100
707
884
   500目迄
9.52
11.59
1,079
1,314
848
1,055
   600目迄
11.00
13.39
1,247
1,518
975
1,219
   700目迄
12.66
15.82
1,435
1,793
1,121
1,401
   800目迄
14.26
17.36
1,616
1,967
1,261
1,571
   1貫目二付
16.44
20.12
1,863
2,280
1,473
1,842
 書状1通10匁迄
2.00
2.00
227
227
150
150
御状箱1封10匁迄
3.50
3.50
397
397
280
280
金子入書状10匁迄
282
353
手形入書状10匁迄
282
353

 『函館商業史の一環』より作成
 大間より江戸迄上下とも日数23日を要す 銀60匁は銭6,800文として換算
 書状・御状箱とも10匁毎に銀1匁増し、金子・手形入書状は10匁毎に銭50文増し
 
 陸路は嶋屋が担当したが、開港後は外国の蒸気船を使っての信書往来も頻繁に行われたようである。慶応元年2月に杉浦兵庫頭箱館引継を平穏に行うことが出来た切っ掛けとなった神奈川奉行組頭からの内状もイギリス商船カンカイ号がもたらしたものであった。明治に入ってもアメリカの太平洋郵船会社所属のエリエール号、ニューヨーク号などが、函館と横浜を結んで開拓使初政の人・物・書状等の逓送に活躍している。
 また箱館市中や近隣の村々への書状逓送に関しては次のような史料が残されている。
 
(1)十一月十一日鷲木浜長鯨丸御船乗組浅羽甲次郎殿、沢太郎左衛門御用状差出、例ノ通取斗、町会所相廻申候
十一月十五日西洋形ノ船見懸次第可申旨ノ触書、市在三通町役人ヘ相渡
十一月十六日奉行衆ヨリ御用状亀田五稜郭内大鳥圭介ヘ被差越候ニ付、右町会所ヘ相達申候
但シ夜八ツ時過出ス
十二月五日江差本陣荒井郁之助へ榎本釜次郎ヨリ御用状一封差越候ニ付、町会所へ差出
十二月十五日テユス方ヨリ松平太郎殿封書二通差越、受取差出、太郎殿ヘ差出、町会所ヨリ受取書取置申候
十二月二十四日玄蕃殿(永井玄蕃箱館奉行)ヨリ福山表人見勝太郎方ヘ御用書差出ニ付町会所ヘ差遣ス
十二月二十八日峠下ニ罷在候ホルタンヘフリヱネヨリ届書翰、同村詰飯高平五郎ヘ郷村継ヲ以酉ノ中刻差出ル
十二月二十九日フリウネ方ヨリ大鳥圭介殿ヘ文通致シ候ニ付、町会所ヘ為持遣ス
(「外国人に関する件」116 道文蔵)
(2)三月二十一日昨日認候状一寸書添同時来ヲ待候処不来ニ付、午前町会所ヘサシ出ス
三月二十六日諏訪ヘノ返事、町会所ヘ差出
四月二日高龍寺より竹中殿ヘノ手紙遣候ニ付、町会所ヘ手紙添差出ス
(「小野権之丞日記」『維新日乗纂輯』)

 
 (1)の史料は明治元年10月に箱館を制圧した旧幕府脱走軍の運上所掛の事務日誌で、箱館府諸役人は青森へ逃れた後引き続いて書き継がれたものである。運上所が脱走軍首脳から逓送を依頼された手紙は、町会所を通じて(町会所からは請書を取る)且つ遠隔地は郷村継ぎにより、信書逓送を行っていたわけである。また(2)の史料は藩公松平容保が京都守護職であった時、公用人を勤め、脱走軍の一員としては、箱館病院の事務長の職にあった小野権之丞の明治2年の日記である。これも手紙は町会所を通じて相手方へ届けている。たまたま脱走軍関係の史料でしか確認できなかったが、為政者の信書は町会所および郷村継ぎの範囲では、町村役人が担当していたようである。