亜米利加四番船の進出

824 ~ 828 / 1505ページ
 表7-4のように明治3年からはアメリカ船が噸数で首位を占め、イギリス主流というそれまでの外国海運勢力の交替が見られた。8年以降は再びイギリス船が首位にたつものの国内の海運の伸長により、沿岸航路における比重は絶対的に低下してしまう。開港から明治初年にかけて日本沿岸で活動した外国商船は海運会社(例えばイギリスのペニンスラー&オリエンタル汽船会社等)のものや個人船主によるものなどであるが、その多くは横浜の居留地に支社や営業所を置いて海運活動に従事していた。
 
 表7-4 函館港外国商船国別入港別
年次イギリスアメリカドイツフランスロシアデンマークスウェーデンオランダ
隻数噸数隻数噸数隻数噸数隻数噸数隻数噸数隻数噸数隻数噸数隻数噸数隻数噸数
明治111440,815
(……)(……)(……)(……)(……)(……)(……)(……)(……)
27125,7722314,550196,123124973,23692,317000013052,247
(2211,841)(1310,784)(1334)(00)(63,034)(00)(00)(00)(4225,993)
34117,0993321,231145,03451,56931,072377624410010147,222
(159,621)(2518,444)(1457)(2576)(2996)(00)(00)(00)(4530,094)
4216,450910,126133,1910031,1262536388012455222,554
(62,025)(611,077)(00)(00)(21,100)(00)(00)(00)(1414,202)
5163,3593027,03461,061000000130412305431,988
(2454)(3020,332)(00)(00)(00)(00)(00)(00)(3220,786)
6153,8413341,01651,34500149812500005546,725
(00)(2639,902)(00)(00)(1498)(00)(00)(00)(2740,400)
7175,5332021,690135,34500299661,51000005835,074
(00)(1120,749)(00)(00)(00)(00)(00)(00)(1120,749)
8207,8593546102,2580031,1220000003611,785
(94,877)(00)(00)(00)(41,584)(00)(00)(00)(136,461)
9135,38171,62951,2680041,2240031,011003210,513
(52,360)(00)(00)(00)(2704)(00)(00)(00)(73,064)
10227,494219,013205,872000051,5692730007024,678
(52,400)(00)(00)(00(00)(00)(00)(00)(52,400)

 各年『イギリス領事報告』、『大日本外国貿易半年表』による.
 上段は総数、( )内は汽船.
 
 ところでアメリカの大手海運会社が日本へ参入して様相は一変した。アメリカ政府の援助を受けた汽船会社・太平洋郵船会社(Pacific Mail Steamship Co.)が慶応3年にサンフランシスコ・上海間に定期航路を開設し、その途中横浜にも寄港したが、明治3年に支線として横浜・神戸・長崎上海間航路を開き週1回就航するようになり、一躍明治初期に最も国内で勢力を誇るようになった。同社の横浜支社が居留地の4番区画に所在したことから「亜米利加四番館」の名で知られ、その汽船は四番飛脚船と呼称されていた。
 同社の汽船が函館に最初に入港したのは慶応3年7月のエリエール号 (Ariel.1738トン) とする史料(「柳田藤吉翁経歴談稿本」)や、また明治2年5月の同じエリエール号であるとする史料(「函館港航路開通の影響報告」)などであるが、イギリスの領事報告やその他の同時代資料では確認できない。いずれにしても明治3年になると太平洋郵船会社の汽船が横浜・函館間にも不定期の航路を開設している。その明治3年は同社の汽船の出入回数によって、アメリカ船の統計数値をおしあげている。入港船数の割りに噸数が大きいのは2000トンクラスの大型汽船が多いためであった。開港期に函館に出入りした多くの商船は帆船であったが、明治期に入って太平洋郵船会社が汽船、しかも大型の汽船を国内の沿岸航路に就航したことは輸送力を飛躍的に大きなものとしたのである。特に6、7年のアメリカの汽船は全てが太平洋郵船会社のものであった。
 大阪を最終地とする日本海航路に就航した北前船買積船が主流であり、自己の荷物を輸送したのに対して、外国商船、特に太平洋郵船会社のような大手海運会社は運賃輸送を目的とする純然たる運輸業であった(ただし開港期においては個人船主の外国商船は函館で積載してきた輸入品を売り、外国貿易品を購入して清国へ輸送するという場合が多かったようである)。
 この当時の問屋である田中正右衛門の荷物扱いの書類に函館の荷主が太平洋郵船会社の汽船を利用した事例を見ることができる。例えば明治3年11月の横浜向けのエリエール号の荷主は大町の物産商小島武八を始め、大町(三国)松五郎、弁天町平左衛門、弁天町栄蔵、水戸藩、彦根藩であり、塩鱈283石、鯣85石、昆布11石、鹿皮9石、塩鮭9石、帆立身6720粒、米糠50俵、梱包物9個の輸送をしている(明治3年庚午8月「諸願留」田中家文書)。これはあくまで田中の扱った貨物のみであるため他の問屋扱いの荷があったと考えられる。いずれにしても和船に比較して輸送量がはるかに上回っていた。太平洋郵船会社の汽船が横浜・函館間に航路を開設したために、函館の商人が同社の汽船に自己商品を搭載して関東市場に送り委託販売を依頼したものであるが、関東市場に直結した形での流通機構を生んでいくという点で太平洋郵船会社船は一定の役割を果たしていった。
 明治4年の「入港退帆記」によれば同年の前半は太平洋郵船会社の汽船は入港していないが、7月以降になると毎月入港している。これは同社が横浜・函館間に月1回の定期航路を開設したことによる(1871年『イギリス領事報告』)。定期航路開設は開拓使内部でも重要視されており、8月20日付で函館支庁から東京出張所に「米国エリエル号毎月西洋十三日函館出帆同一日横浜出帆相成趣ニ候間当方ヘノ御用状類右便ニテ御廻有之度此段申入置候也」(「開公」5488)として太平洋郵船会社の定期便を利用して書状を回送するように依頼している。就航船はエリエール号が用いられたが、代船もしくは臨時船(10月前後は海産物輸出のため増便している)としてニューヨーク号(2217トン)、コスタリカ号(2492トン)、オレゴニアン号(2574トン)、ゴールデンエッジ号(2453トン)などの大型汽船が就航している。太平洋郵船会社はこれらの大型汽船を就航させたことによりイギリス船を圧倒するとともにわが国の開港場間における沿岸輸送においても優位を占めた。このため後に政府は国内海運業の保護政策を取り外国海運勢力を排除しようとした。
 太平洋郵船会社が急速に勢力を増大していったことは在函イギリス領事がしばしば言及していることからもわかる。同領事報告による明治初期の太平洋郵船会社に関する記述を拾ってみよう。1871(明治4)年の報告には「アメリカ船が過去最高の入港噸数をみせている。…それは太平洋郵船会社の汽船が月に一度横浜と当港の間を定期的に航行しているからである。このような定期運航の確立はこの地に大きな利益を立証するようなものである。そして太平洋郵船会社の当地の支社の経営がその航路の存続を可能とするような利益を充分にあげているのを証明しているようだというのを知るのは良いことである。日本の荷主や乗客も同社の汽船がもたらす定期化や安全面の良さが充分に分かっているようだ。」と定期便の便利さや運航の安全面が函館において受け入れられ、また太平洋郵船会社函館支社の経営が順調で展開していると述べている。
 1872(明治5)年の報告では対前年比で噸数で外国商船の出入りが増加したことに触れて「それはすべてアメリカの船舶、つまり現在当港に定期的に運航している太平洋郵船会社の汽船によるものであり、同社は昨年(編注・明治5年)代理店を設立した」と同社が経営も順調に進んでいることから、後述するように直営の代理店を置いたことを述べている。
 1873(明治6)年の報告は対前年比でさらに外国商船の函館入港が増加した点について「太平洋郵船会社の汽船が一層定期的に当港に入港したのみならず一層頻繁に入港するようになったためである。それで全船舶のおよそ半数近くが太平洋郵船会社のものであった」として、定期便とは別に不定期便も増加したことを伝えているが、同時に横浜・函館間の定期便化が鮮明になったということを物語っている。また不定期の便が増加したのは需要が増したためであり、函館・横浜間のむすびつきが一層強化されたのである。