北海道関係航路の重視と道庁補助航路

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 明治30年代に入ると郵船の国内航路は鉄道網の進展にともない本州沿岸航路からの撤退を余儀なくされたため北海道・本州連絡線および北海道沿岸線の比重が増大していった(『日本郵船株式会社百年史』)。
 本州の沿岸航路が次々と廃航されて郵船にとり神戸・函館・小樽の東回り線は特に重要視された。「我内地近海諸航路中ニ在リテ最要ノ位置ヲ占ムル」(同前)航路とされて、出荷量も多く、春、夏の繁忙期には増便され、特に31年6、7月には汽船11隻で隔日1回の定期航海が実施されたが、32年以降は3日に1回(7隻)となった。
 
 表7-19 日本郵船乗客運賃
行先
1等
2等
3等
青森
室蘭
釧路
厚岸
霧多布
根室

網走・斜里
単冠・紗那
得撫
江差
寿都
岩内
小樽*1
増毛
天売・焼尻
椎内
枝幸
網走*2
荻浜
同洋食付き
横浜
同洋食付き
四日市
神戸*3
同洋食付き
小樽*4
同洋食付き
能代・土崎
酒田
新潟・佐渡
直江津
七尾
敦賀

下関・門司
尾道
神戸*5
2.70
3.60
6.30
7.00
7.50
8.80
11.30
15.05
16.30
20.05
3.60
5.40
6.30
7.50
10.50
11.80
16.30
19.80
25.30
6.00
8.00
11.00
14.00
15.50
18.00
24.00
7.00
9.00
7.50
9.00
12.00
15.00
16.50
19.50
24.00
27.00
31.50
33.00
1.80
2.40
5.00
5.50
6.00
7.00
9.00
12.00
13.00
16.00
2.40
3.60
4.20
5.00
7.40
8.40
12.00
14.80
19.20
4.00

7.00

10.00
13.00

5.00

5.00
6.00
8.00
10.00
11.00
13.00
16.00
18.00
21.00
22.00
0.90
1.20
2.50
2.80
3.00
3.50
4.50
6.00
6.50
8.00
1.20
1.80
2.10
2.50
3.70
4.20
6.00
7.40
9.60
2.00

3.50

5.00
6.50

2.50

2.50
3.00
4.00
5.00
5.50
6.50
8.00
19.00
10.50
11.00

 *1函館・小樽線、*2東回り線、*3東回り線、*4東・西回り線、*5西回り線
 上記運賃は明治36年現在、『実利実益北海道案内』より
 
 神戸・函館・小樽の西回り航路は1週1回(4隻)が31年度前期から5隻、1週1回に増強されたが、北陸地方における鉄道延長により、32年度前期から積荷に影響し運賃率も低落した。同航路の主要貨物は東北米と北海道海産物、阪神輸出の砂糖、綿糸、鉄、三備地方の食塩であった。函館および小樽で東回り線と連絡したが、適宜東回りに延航し、貨物を東海岸に直輸した。しかし、33年10月の新補助命令によって航海区域が限定され他区域への流用が禁止されたため、神戸、函館方面から横浜への貨物輸送が停滞した。そのため、郵船は函館に24回、神戸に11回臨時線を回航した。だが、この接続転送では輸送日時や積み替え作業のロスが多いため、35年5月より私設航路の神戸・横浜線(1週1回、1隻)を吸収して、横浜に延長し、6隻で1週1回の定期航海とした。30年代なかばの郵船の函館から各主要港への等級別運賃を表7-19に掲げた。
 政府の命令航路は日本郵船が担当したことは前に述べたが、北海道関係でみると日本郵船の航路は函館を始めとする主要港湾に限定されていた。命令航路は政府の掌握するところであったので、当初道庁としては海運政策上、道内の航路網を拡大する必要を認めながらも中央依存から抜けだせなかった。例えば初代長官岩村通俊が20年5月に全道の郡区長会議で述べた「施政方針演説」(『新撰北海道史』史料2)では海運政策に関する部分は全く触れておらず、「港湾ノ修築灯台ノ建設」と題した箇所で港湾測量・修築や灯台の建設を進め、航海の安全を保ち、その効果により運低減が可能となると述べ、受け入れ施設の整備にとどまっている。従ってそれ以外の交通は函館や小樽などの船舶によるしかなかったが、それも冬季間になると東海岸では根室以東、西海岸は小樽以北は航路が途絶えた。このため道庁では日本郵船の命令航路に頼ることはできず、道庁独自に補助金を出して、特別に航路を開設させるという必要に迫られた。それがいわゆる道庁の補助航路であった。
 まず20年代に道庁が補助金を支出して航路を開かせたのは小樽・増毛冬季航海(21~24年度)、千島冬季航海(24年度~)、増毛・稚内冬季航路(24年度のみ)、稚内・網走冬季航海(25、6年度)のわずか4線のみで、しかも30年代以降も継続したのは千島航海のみであった。小樽・増毛間は民間の航路が開けてきたため廃止、稚内航路は流氷などの自然条件が厳しく廃止した。受命者は日本郵船や天塩北見漕運会社、また函館の若松忠次郎などであった。
 このなかで函館に関係ある航路として千島冬季航海が挙げられる。18年に共同運輸が国後擇捉方面に夏期に月4回程度の航海をし、19年からは日本郵船に引き継がれ、得撫(ウルップ)方面まで航路が延長された。しかし冬季間には全く航海が杜絶したのである。このため北海道庁は24年に300円の補助金で試験航海者を募集したが応募者はいなかった。そこで長官自ら日本郵船に申し入れ補助金を1500円に増額して解決した。翌25年2月23日に播磨丸が試験航海として函館を出帆し、花咲を経由して色丹島、択捉の単冠(ヒトカップ)湾などを巡航して3月4日に函館に帰港した(『北海道庁統計綜覧』)。この成功によって道庁は正式に補助航路を開くことにして、25年度は愛知県半田の半栄社、26年度以降は函館の若松忠次郎が受命した。若松は元杉浦嘉七の十勝漁場の支配人を勤め、その後独立して同所で漁業を経営し資本蓄積をなした人物で、また19年から24年にかけて衰退していた栖原家の経営の回復にあたり、その敏腕を振るった。このころは、道内に所有する漁場の経営にあたるかたわら汽船を持ち回漕業も営んでいた。若松は千島航路に汽船清徳丸をあてたが、冬季間にわずか1回にすぎなかった。30・31年度は山県勇三郎(玄武丸)が受けて航海数は2度に増えたが、32年度以降は函館・単冠間冬季航海と名を変えて日本郵船が受命した。