函館の造船業界は安政期以降続豊治と辻松之丞(5代)の両船大工の共同作業によって箱館丸や亀田丸などのスクーナー形帆船を建造したことにより、伊豆の戸田や江戸の石川島とともに、わが国では西洋形帆船の製造地として最も先進的であったといわれている。続豊治や辻松之丞の他に島野市郎治それにイギリス人のトムソンの4業者が幕末から明治初期にかけて「御船造船所」と呼ばれた地域の周辺、すなわち地蔵町の築島一帯(後の船場町や豊川町)に小規模の造船所を構えていた。トムソンはそれまで警備官として勤務していた箱館のイギリス領事館を辞し、慶応元(1865)年に独立して造船業を始めている。トムソンの生家はロンドン付近で造船業を営んでおり、彼自身も知識と経験を持っていたので当時の箱館の趨勢を見て、造船業を始めたものである。元治元(1864)年にイギリス組合船大工として同国領事から箱館奉行へ地所借用願書が提出され、翌慶応元年閏5月に地蔵町築立地53~55番の970坪余の土地が貸し渡されている。この時の請書は「トムソン並ニウィルレム・ケ・ボールト」となっており、共同で始めたことがわかる(慶応元年「船場町地所貸渡書類」道文蔵)。トムソン造船所は創業期から明治8年ころにかけてはスクーナーあるいはボート(バッテラー)の西洋形船を建造してほぼ独占状態であったという(『北海道造船業』)。
一方続豊治と辻松之丞は幕末に西洋形帆船の建造を手がけてはいるが、いずれも官船で、洋船製造の技術を持っていても、経費や西洋形帆船の民間需要のなかった時代であったから、和船(それも小規模のもの)や磯舟の建造あるいは修繕などに従事していた。それは明治初期も同様であったと思われる。トムソンを除き彼らの造船所は住居兼作業場といった趣のもので、狭隘であるため、少々規模の大きい修理などを手がけるときは、前記の御船製造所を借りて作業にあたっていた。この御船製造所は箱館丸や亀田丸を建造されたところで、文化年間(1804~1818)に建設された御作事場の後身である。御船製造所は明治期になると官船製造所となり、市中の用に供している。明治11年の『開拓使一覧表』によれば同所は772坪余の敷地であった。
官船製造所の利用実態を見ると、たとえば6年に辻松之丞が平田船を建造するために1か月間の借用を願い出ている事例(明治6年「市中諸願伺留」道文蔵)や、11年5月に続豊治が5か年の貸渡しを出願した際には「該地ハ従来造船地ニ充テ、誰彼ノ別ナク造船ノ為拝借願出ノモノヘ其時々御貸渡相成来候、今豊治願ノ通五ヶ年間貸渡ノ義御聞届相成候ハバ他ノ造船者於テ難渋ノ儀モ可有之不都合ト存候」(明治11年「取裁録」道文蔵)として却下している文面から明らかなように開拓使の利用以外に幕末同様市中の造船業者に交互に利用させていたのである。
なお明治12年の大火後、開拓使は都市計画の関係から船場町一帯を倉庫地に指定し、官船製造所の敷地を広業商会へ倉庫地として払い下げた。このため文化年間から造船所として利用されたこの一帯の使命を終えた。なお地目用途の変更のため近隣地にいた続造船所は真砂町へ移転せざるをえなくなった。