志苔館と渡党

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 一般に志苔館を含めて「道南の十二館」という。最近一つの考えとして、この館が築造される歴史的な背景として、鎌倉時代以来の「蝦夷管領」ないし「日ノ本将軍」の津軽安藤氏による北方支配があったことが指摘されている。しかし、これまでの「道南の十二館」の館の成立に関する研究は、吉岡康暢氏が指摘するように、どちらかといえば、一四三〇年から四〇年代(永享三~嘉吉三)の安藤康季の渡島、あるいは安藤政季の渡島に、館成立の現実的整理を求めてきた。そのため、館の築造と長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦いの勃発が、ほぼ同時に発生するのはなぜかという年代的矛盾にどうしても十分に応えられなかった(吉岡康暢『日本海域の土器・陶磁』)。今後はこの点に鑑み、「道南の十二館」の段階的築造に注意すべきであると思われる。
 「道南の十二館」のうち、志苔館の築造は、安藤康季の永享四(一四三二)年の渡道以前、すなわち、安藤氏が本拠地の津軽十三湊において「日ノ本将軍」として、鎌倉時代以来の「蝦夷管領」の系譜に基づき、蝦夷島統治をしていたその一環として捉えることも可能であると思われる。近年の安藤氏研究の成果を考慮して、ここでは、仮説的に、志苔館は一四世紀の後半、十三湊のこの「日ノ本将軍」安藤氏の蝦夷島支配の前進ともいうべき直営港湾基地として築造されたと考えてみたい。
 では、十三湊の安藤氏の指揮・支持を受けながら、志海苔で館を築いたのは誰であろうか。それを考える一つの素材として、次の『新羅之記録』の記事がある。
 
  右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を迫討し御(たま)ひし節、糠部津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す(中略)今奥狄の地に彼の末孫狄と為りて之に在りと云々。亦実朝将軍之代、強盗海賊の従類数十人搦め捕り、奥州外ケ浜に下し遣り、狄の嶋に追放せらる。渡党と云ふはかれ等が末なり。
 
 すなわち、鎌倉幕府の治世下、「エゾ島」=北海道に、平泉藤原泰衡の残党や強盗・海賊の従類が逃走したり追放されていた。『新羅之記録』は、その末裔を「渡党(わたりとう)」と呼ぶと伝えるのである。『今昔物語集』の安倍頼時の渡島を引き合いに出すまでもなく、道南から北奥地域に展開した擦文文化(八~一三世紀)の時代には、すでに頻繁な人的ないし物的交流があった。その意味で、この古代末期における渡島者は、原「渡党」といえなくもなく、かかる「渡党」の人びとの渡島は年を追うごとに微増したと思われる。
 一方、志苔館の館主となる小林氏について、『蝦夷実地検考録』は、「良景は渡党にて本国は上野也とぞ。良景の祖父次郎重弘より是国に渡りて住り」と伝える。小林氏も、良景の祖父重弘の代に上野国(現群馬県)から渡島してきた「渡党」であったというのである。
 どうやら鎌倉幕府以来の「渡党」と十三湊の安藤氏の蝦夷島支配とのかかわりの中に、志苔館の築造の謎が秘められているようである。つまり、「渡党」に系譜をもつ小林氏が、一四世紀末の重弘の時代、津軽十三湊の「日ノ本将軍」安藤氏の指揮・支持のもと、和人初の館、「道南の十二館」の嚆矢たる「志苔館」の第一期(一四世紀末)築造に踏み切ったのではあるまいか。小林氏は、昆布交易を中心に相当な財を築き、一方の津軽の「日ノ本将軍」安藤氏も、和人初の対アイヌ政策の前進基地ともなるこの志苔館の築造には、重大な決心をもって臨んだのではないだろうか。
 この頃、津軽十三湊の「日ノ本将軍」は安藤康季である。康季は、応永三十(一四二三)年に室町の将軍足利義量に莫大な品々を献上し、あまつさえ、羽賀寺の再建に力を尽くした人物である。そして永享四(一四三二)年、「蝦夷管領」「日ノ本将軍」家の安藤家として初めて渡道した人物でもある。こうしてみれば、「海の領主」として東アジア世界に覇もとげるこの安藤康季が、アイヌと「渡党」が混住している「日ノ本将軍」の前進港湾基地たる志苔館の第一期築造に、領主小林氏とともに、基地と館の繁栄を祈って埋納したのが、「志海苔古銭」ではなかったか。
 詳しくは、後述に譲ることにして、ここでは、一つの考えとして、「日ノ本将軍」安藤氏と小林氏との結び付きの中に、「志苔館」の第一期築造と古銭の埋納が営まれたことを推測しておきたい。
 道南には、この小林氏をはじめ「渡党」たちの生活の痕跡がさまざまに残されている。その様子を少しみることにしよう。
 まず、墳墓については、次の代表的な三つの中世墳墓が注目に価する。一つ目は、木古内町札苅遺跡から発見された鎌倉初期から室町中期頃と推定される和人の土壙墓一基である。この墓からは、「六道銭」として使用された渡来銭(北宋銭)が伴出した(木古内町教育委員会『札苅遺跡』)。二つ目は、上ノ国町夷王山から発見された一四〇余基にも及ぶ和人墳墓群で、一四世紀中葉から一五世紀頃のものと考えられ、この墳墓から火葬と土葬の人骨が、硯・古銭・漆器・木盃などと共に発掘された(上ノ国町教育委員会『史跡上ノ国勝山館跡』Ⅱ・Ⅲ)。そして三つ目は、松前町字上川遺跡から発見された一二基の和人墳墓で、これは土葬墓で伴出した古銭(北宋銭・明銭など)の年代から判断して、一五世紀中葉から一七世紀頃のものと推定される(久保泰「松前町字上川墳墓遺跡の調査」『松前藩と松前』13)。
 次に金石文類については、函館市称名寺境内の貞治六(一三六七)年の板碑が、「渡党」の痕跡を留めるものとして貴重である。この板碑には「貞治六年丁未二月日 旦那道阿 慈父慈母 同尼公」と陰刻されている。今一つの金石文類は、函館市石崎石崎八幡宮の「鰐口」(市立函館博物館保管)である。この「鰐口」は、永享十一(一四三九)年の紀年銘を持ち、「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前 施主平氏盛阿弥敬白 永享十一年三月日」と刻まれている。このうち、後者の「鰐口」は、後述するように、銭亀沢の中世を読み解く上で、頗る重大なものである。
 中世和人の移住人ともいうべき「渡党」は、このように、その痕跡をかすかに現代に伝え残している。
 小林氏は、良景の祖父重弘の世に、そうした「渡党」の一員として、安藤氏との盟約のもと、その支援を受けながら、生活の場であり軍事の拠点でもある中世城館=「志苔館」を港湾基地の一角として築いたのではなかろうか。その年代を一四世紀末期と前に推測してみた。この年代推定を物的に裏付けるものが、「志苔館」の発掘調査報告書である。しばらく、この『史跡 志苔館跡-昭和五八~六〇年度環境整備事業に伴う発掘調査報告書-』(函館市教育委員会、以下『発掘調査報告書』と略す)により、中世の志苔館の周辺をみることにしよう。