アイヌの存在形態

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 この頃の和人地における和人人口およびアイヌ人口の変化をみてみると享保元(一七一六)年から天明七(一七八七)年の約七〇年の間に和人は一万五五三〇人から二万六五六四人に増え、アイヌは一五二人から一二人へと減っていることがわかる(榎森進『北海道近世史の研究』一九八二年)。
 また、「函館支庁管内町村誌」の松前郡大島村、江良町村の沿革の項に一七世紀(慶長から元祿にかけて)の和人の渡来に関する記載に続けて「和人ノ増加ニ伴ヒ蝦夷ハ他ニ転ジ年ト共ニ減少シ、遂ニ其後ヲ絶ツニ至レリ」という記載がある。
 さらに大島村清部村の項には、「津軽・南部地方ノ人落流寓、…爾後、漸次同国人ノ入込ミ来ルアリテ戸数二、三十戸ニ及ブニ至リ、蝦夷ハ漸次俗ニ云フ「あいぬの沼」ニ退去セリト伝フ。」、根部田村の項には、「部内ノ中最モ先ニ拓ケタルハ赤神村ニシテ愛奴人ノ居住者最モ多カリシ所ナリシモ、漸次北地ニ移リ寛政年間已ニ其影ヲ認メサルニ至レリト云フ。其後南部・津軽方面ヨリ来往スルモノ多ク集団戸数モ漸ク増加セリ。」とあるように和人の増加にともないアイヌが後退していく様子が描かれている。
 銭亀沢は中世末期に形成されていた上ノ国から知内間の初期和人地が、寛文期(一六六一~一六七三年)頃までに、西は熊石、東は石崎村あたりまでと次第に拡大され、和人地に含まれるようになった地域である。
 寛永十(一六三三)年の幕府巡見使の巡見範囲が東は汐石崎の地となっていること(「松前年々記」『松前町史』史料編第一巻)、近世初頭に亀田に亀田番所が設置されたこと、文化期の東在の東端は石崎村となっていること(「松前福山・函館・江差三ヶ所附東西村調」ほか)などからその様子を窺うことができる(榎森進『北海道近世史の研究』)。
 この時期には、「一、塩川有、狄おとなコトニ、但ちゃし有、家十軒」(『津軽一統志』巻第十所収「松前より上蝦夷地迄所付」「松前より下狄地所付」、津軽藩士則田安右衛門『寛文拾年狄蜂起集書』の「松前より上狄地迄所付」「松前より下狄地迄所付」)とあるように、アイヌ共同体の首長である乙名を中心に汐川の周辺には、まだアイヌが居住していた。寛文九(一六六九)年の段階では、「上ノ国-知内間の初期和人地内では、両端におけるごく少数の存在を除き、もはやアイヌの居住はみられなくなっているものの、上ノ国-関内間、及び知内-石崎・ヤケナイ間の新たな和人地内にあっては、年々和人の進出をみつつも、主要な河川の所在地を拠点にして、未だ一定のアイヌ民族本来の自律的共同体が存在していた」といった状態であったことが考えられる(榎森進『北海道近世史の研究』)。
 しかし、汐川における鮭漁や亀田から汐首岬にかけての海岸線における昆布漁を基盤とする和人人口の増加により、わずかに残っていたアイヌは急激に減少していった。