歴代の上席書記・助役

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荒木惣右ヱ門(昭和4年4月11日~同6年6月1日)
 嶋谷上席書記の後任として赴任した荒木惣右ヱ門は松前郡吉岡村の出身、大正8年新冠郡各村戸長役場筆生として奉職し十倉十六美と相識り、十倉が荻伏村長となるや招かれて大正11年7月荻伏村書記となり、十倉が新冠村に転ずるや荒木もまた同13年11月新冠村書記に転任、十倉と形影を共にした。
 昭和2年、十倉が尻岸内村長として着任し、嶋谷上席書記が昭和3年4月に転出するや十倉村長は後任として荒木を推薦、4年4月11日尻岸内村上席書記として迎えられた。荒木は、十倉村政を扶けて活躍したが、たまたま昆布礁投石不正事件にからんで十倉が村長の職を辞するにおよんで、その後半年余り後任の丹野村長を扶けつつ、村財政の立て直しと、村政の威信回復に努め昭和6年6月1日、その職を辞して去る。
 
東出快次郎(昭和6年6月1日~同7年4月26日)
 荒木惣右ヱ門の後任として迎えられた東出快次郎は茅部臼尻村の出身、明治41年地元の臼尻村役場の書記として6年間勤め大正3年退職、上京して早稲田大学専門部法律学科で学ぶ、同5年健康上の理由で中退し帰郷半年間の療養後、同6年5月再び臼尻村役場に勤務、以降、昭和5年まで吏員生活を送るが、一時(大正11年3月から12年4月迄の1か年)渡島汽船株式会社の社員(出向か)となった期間がある。
 昭和5年、臼尻村役場を辞職、臼尻漁業組合理事組合長を1年間勤めた後、昭和6年6月1日、尻岸内村上席書記としての辞令を受け、荒木前上席書記から事務引継ぎを受ける。東出については以上、波乱に富んだ経歴から、幅広い経験に裏打ちされた知識と豪放磊落な性格で部下職員を始め村民からも非常な敬愛を受けた。東出の学問への情熱はなお強く行政職として最も重要な「法律の勉強」をつづけ、名上席書記と謳われたが、昭和7年4月26日松前郡大沢村長を命ぜられ、村民に惜しまれつつ尻岸内村を去った。
 
蛯子信次(昭和7年4月30日~同7年8月26日)
 東出快次郎の後任蛯子信次は茅部郡森町の出身、蛯子は逓信業務を志して、明治40年通信伝習生養成所へ入所したが卒業後、大正3年瀬棚郡利別村役場に奉職、同4年臼尻村役場に転じ、6年森町役場に勤務、後大正10年には北海道庁拓殖部に入り、翌11年函館支庁在勤を命ぜられる。道庁では専ら拓殖関係の事務処理にしたがっていたが大正15年に退職しばらく浪人。昭和3年砂原町役場に書記として奉職、漁業組合書記を兼務する。
 昭和7年4月30日、(斉藤照蔵村長の時)尻岸内村役場上席書記として赴任するが、僅か4か月後退職を願出、同年8月26日許され職を去る。
 
井上久男(昭和7年8月26日~同10年6月30日)
 在職僅か4か月の蛯子の後を引継いだ井上久男は、山形県南置郡広幡田村出身、郷里の成島実業補修学校卒業後、家業に従事していたが、来道、大正14年上磯町役場「林野看守」として勤務、同15年8月には同町役場書記となり職務に専念する。後、昭和3年11月、尻岸内村役場書記を命ぜられ赴任する。
 井上は昭和6年7月、勤勉精励な勤務態度をかわれ収入役代理者に指定されるが、蛯子前上席書記の突然の退職により、翌7年8月26日上席書記の職に就く、以降、斉藤照蔵村長を扶け内助の功を尽くし、昭和10年6月30日、職を辞し去る。
 
水野 斎(昭和10年7月21日~同11年11月20日)
 井上上席書記の後任として着任した水野斎は、愛知県西春日井郡豊山村出身、町村吏員になることをめざし、大正7年「町村吏員養成所」に入所して実務学科を修得した人である。卒業後、来道、亀田郡湯の川村役場を振出に、同9年上磯郡茂別村役場、同15年松前郡吉岡村役場、昭和3年山越郡長万部村役場、同7年隣村の椴法華村役場、8年茅部臼尻村役場と渡島管内の町村を歴任、研鑽を積み、昭和10年7月21日、尻岸内村役場上席書記として着任、井上前上席書記の後を受け嶺村長の村政を扶ける。
 水野の在任は1年余り、翌11年11月20日茅部郡鹿部村勤務を命ぜられ、村を去る。
 
高谷専蔵(昭和11年11月20日~同12年10月11日)
 水野の後任高谷専蔵は茅部郡鹿部村の生まれ、大正7年に郷里の鹿部村役場に奉職、以来、昭和11年まで17年間にわたり、兵事・戸籍・教育・勧業・庶務・財務・土木・税務と役場業務のすべてを経験し、こなしたベテランある。
 昭和11年11月20日、尻岸内村上席書記を命ぜられ、丁度、前任水野と入れ替えの形で着任、嶺村政を扶け職務に専念したが僅か9か月、翌12年10月11日、職を辞し離村する。
 
菊池文五郎(昭和12年10月11日~同13年6月9日)
 町村行政のベテラン高谷の後を継いだ菊池文五郎は、岩手県下関伊郡宮古町の出身で、県立青森中学校卒業後、小樽高等商業学校(現小樽商大)に学び、大正5年12月、弘前歩兵第21連隊へ主計兵として入営、同7年主計官に任官、除隊後の昭和4年、青森県西津軽郡岩崎村の名誉助役に就任、同5年には同村の名誉村長に推された人である。
 昭和6年1月、家事の都合によりすべての公職を辞し、来道、茅部郡落部村役場に奉職、昭和8年には鹿部村役場に転じ、同10年上磯郡茂別村役場に勤務後、昭和12年10月11日、尻岸内村役場上席書記として着任、嶺村長のもと村政を扶けたが、在任僅か8か月、昭和13年6月9日、職を辞して去る。
 
左沢長松(昭和13年6月22日~同15年5月2日)
 菊池の後を受け着任した左沢長松は、石川県河北郡内灘村字黒津船の出身、来道し大正13年松前郡小島村役場に奉職、後、昭和6年5月茅部尾札部村役場に勤務、同年7月には収入役代理に指名されたが固辞し、税財政、戸籍事務を掌る。
 昭和13年6月22日、尻岸内村役場上席書記を命ぜられ着任、嶺、上達両村長に仕え村政を扶ける。昭和15年5月2日茅部臼尻村役場勤務を命ぜられ離村する。
 
小西栄作(昭和15年5月2日~同18年1月21日)
 左沢の後任、小西栄作は爾志郡熊石村字根崎の出身、大正6年郷里の熊石村役場に奉職、同13年檜山郡厚沢部村に転勤したが、同15年には樺太(サハリン)に渡り真岡町役場に勤務、昭和2年には一転、真岡中学校に勤務する。昭和6年、再び北海道へ戻り上磯郡知内村役場に勤務、同7年松前郡吉岡村、10年8月には茅部郡落部村、11年11月松前郡小島村役場を歴任、そして、昭和15年5月2日尻岸内村役場上席書記として着任、上達村長の村政を扶けるが、この間、日華事変から太平洋戦争へと戦線は拡大、統制経済・戦時下の村財政を預かり、上達村長の村政を扶け八面六臂の活躍をする。
 小西の人間性について、「明るい性格の持ち主で上下の差別を感じさせず、暗く劣悪の条件の中での難題にも笑顔を絶やさず、大笑裡に解決する妙技を心得ていた」と伝えられている。昭和18年1月21日、上磯郡茂別村上席書記として転出する。
 
谷内久吉(昭和18年1月21日~同18年5月28日)
 名助役(上席書記)小西の後任として着任した谷内久吉は、紋別郡紋別町の生まれであるが本籍は札幌市。大正10年斜里村役場書記を振出しに、同11年女満別村、13年には端野村、昭和4年遠軽村、同8年雄武村、9年津別村と網走支庁各村役場を歴任し、昭和13年1月には上磯郡上磯町助役に就任している。
 昭和18年1月20日上磯町助役任期満了となり退職した翌日の昭和18年1月21日、尻岸内村上席書記として発令され着任したが、在職僅か4か月、同年5月28日には隣村椴法華村長を命ぜられ転出する。
 
杉谷梅一・初代助役(昭和18年6月1日~同20年3月27日)
 昭和18年には町村制が改正され、1・2級町村の区別が撤廃され、2級町村の「上席書記」の制度が廃止となり、これまでの1級町村と同様「助役」が置かれることに成った。こうして尻岸内村初の助役に就任したのが杉谷梅一である。
 杉谷は茅部尾札部村の出身、役場職員を志し大正8年「町村吏員養成所」を卒業、郷里の尾札部村役場に奉職、兵事・財務・税務などを経験し、昭和4年からは庶務・厚生・社寺・土木・勧業主任として活躍し、昭和10年椴法華村役場へ転任、同13には上磯郡茂別村役場、14年には茅部砂原村役場勤務となる。
 
前田時太郎(昭和20年3月27日~同21年6月6日)
 杉谷初代助役の後任前田時太郎は、尻岸内村生まれ尻岸内育ち、という生粋の尻岸内ッ子である。前田は大正9年「町村吏員養成所」を卒業、同10年6月郷里尻岸内役場に奉職、戸籍・兵事・教育・庶務等の事務を担当しその手腕を認められ、昭和6年7月収入役に就任、以来14か年、昭和20年3月27日助役に選任されるまで勤める。
 前田が助役に就任した時期は、太平洋戦争も末期、熾烈を極めた戦いに日本全土は悲惨な状況を呈している時期であつた。米軍の物量攻撃にサイパン島、硫黄島の守備隊は全滅、本土は連日のようにB29爆撃機・グラマン戦闘機の空襲を受け、軍部の「本土決戦」の掛声に老人も婦人も悲壮感を抱き竹槍訓練に駆出される、明日のない日々であった。
 直接的には戦禍を受けていなかった郷土ではあったが、日増しに厳しさを増す食糧事情平時でさえ交通の不便な下海岸地帯であり、交通機関の大混乱に食料・必需品の遅配欠配が相次ぎ、村民の生活は破局的な状態に陥っていた。
 このような状況のなかで、井上の村政を扶ける前田の職務は、その大半を「食糧確保」に費やされなければならなかった。
 昭和20年8月6日、広島への原爆投下、9日長崎へ…8月15日の玉音放送−天皇の終戦を告げる録音放送によって、長く苦しい太平洋戦争(昭和16年12月8日、日本の宣戦布告により勃発、3年8か月にわたった戦争。わが国は大東亜戦争と呼んだ)に終結を見た。
 終戦同時にわが国は連合軍の占領下に置かれ、これまでの行政は機能しなかった。前田は、襲ってくる食料危機に8千人の村民を守るため、最早机にすわっていることが許されなかった。前田助役は職員を指揮し作業服を身にまとい、食料供出奨励のため、遠く、空知・上川・十勝などの農業地帯に満員列車に揉まれながら乗り込み奔走した。このため、食糧管理法違反(いわゆる闇(ヤミ))で尋問された事もあった。
 前田が出張中、部下の物資配給に適性を欠く出来事が発生、潔癖症の前田は助役としての責を一身に受け昭和21年6月6日、慰留されたが辞表を提出し職を去る。