蝦夷地と江戸との航路はこの時代、画期的な進歩を遂げ、特に東蝦夷地の莫大な産物に伴い船舶の運航は頻繁となり、択捉島までの商船の航路が開かれた。
従来、蝦夷地の産物は箱館六ケ場所の塩鱈以外の産物は、他国に直移出することを許されなかったが、この時代に入ってからは根室・国後・択捉等の塩鮭を江戸・水戸・仙台などに直送した。また、塩鱒・搾粕・魚油なども直送することがあった。このことは直捌(官営)が廃止された後も、請負人(商人)の出願により根室・国後・択捉等の鮭を江戸に直送することが許可されるようになった。
航路の進歩は、港の修築や北前船などの船舶の運航能力の向上に因るところも大きかった。中でも高田屋嘉兵衛の推薦で、享和2年(1802)箱館奉行から択捉島の修築を命ぜられた播磨の人、工楽(こうらく)松右衛門の功績は大きい。箱館の地蔵町の築島の築造をはじめ、幕府に規制されていた大型船の帆布の改良は、当時の船舶の航行能力を飛躍的に高め、「松右衛門帆」として後世にその名を残している。