3、恵山町ふるさと民話集

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恵山ふるさと民話めぐり(1)


恵山ふるさと民話めぐり(2)

 恵山町では町民の手づくりによる「ふるさと民話」第1から第3集まで発刊している。
 このふるさと民話の発刊は、尻岸内町史編集長の浜田昌幸の長い間の思い・願いから生まれた。
 浜田は昭和45年尻岸内町史を発刊、さらに生徒のための郷土の歴史読本を執筆する中から、子どもたちにもふるさとの歴史、先人たちの足跡、郷土のすばらしさを語り伝えたいという思いにかられていた。浜田は恵山地方史研究会の仲間にこの思いを伝え、賛同を得て「ふるさと民話」編集の聞き取りを始めた。取材は郷土は勿論、対岸の下北地方にまで及んだ。そして、平成元年4月、恵山町「ふるさと民話の会」が発足、事務局は教育委員会社会教育課に置かれた。
 
 恵山町「ふるさと民話の会」  平成元年四月 現在
  会長 浜田 昌幸
  会員 東 助三郎(字日浦)  野呂  弘(字女那川
     中野 輔雄(字高岱)  三好 博久(字日ノ浜)
     蔦  龍明(字恵山)  松浦三千秋(字恵山)
     岩田  清(字御崎)  田中 冨夫(七飯町在住
 
 『ふるさと民話』第1集 平成2年6月発刊
 ふるさと民話の会々員らが町内外から聞き取り・取材した素材は40編余り、編集事務局の三好社会教育課長は、ふるさと民話集を平成2年度を目途に発刊することとした。執筆者については各小学校から国語科あるいは文学に関心のある教職員ということで、中山修一(日浦小)・佐賀井尚(尻岸内小)・佐々木建二(恵山小)・近堂俊行(古武井小)が委嘱され原稿執筆にあたった。
 全体構成に就いて
 取材された40数編については、内容の検討・重複しているものの整理・統合などを行い、地域性も考慮に入れ15作品に絞り収録・編集した。
 
 【プロローグ】
  エシャニヌプリとカヤペヌプリ
 【伝説の中から】
  たか捕りの名人 志利喜寿明神の岩 火の滝沢の古狸 テング山の神様 姉コ木挽 佇て岩とサンタロ泣かせ アイヌ親子の漂流 めくされ湯
 【おじいさんのむかし話】
  日浦峠の話 尻岸内の話 古武井の話
 【歴史の中から】
  アメリカ人と村役人の問答 東京丸の遭難
 【エピローグ】
  力持ち又右衛門
 
 『ふるさと民話』第2集“古武井鉱山物語” 平成4年9月発刊
 古武井鉱山物語は、恵山町の東を流れる古武井川上流およそ9キロに、元治元年(1864)発見され、明治34・5年山縣勇三郎、押野常松らにより開かれ、大正7年まで操業した硫黄鉱山の物語である。
 明治45年には三井鉱山に経営が移り、生産高はひととき日本一、東洋一とも謳われ、硫黄輸出全量の50パーセントを占め、明治から大正期の日本の産業発展に大いに貢献した鉱山であった。
 短い期間であったが古武井川流域に1,500人とも2,000人ともいわれるほどの集落が生まれ、鉱山神社の祭りには東京大相撲がやってくるなど、村は硫黄景気で下海岸でも有数の村に発展した。
 鉱山の盛衰がそうであるように古武井鉱山も現在では語る人もまれで、その存在すら忘れ去られている。しかし、古武井川は、鉱山跡から流れ出る強酸性水で今も魚影を見ることができない。
 この古武井鉱山については産業編、鉱業の章に詳細に記したが、ふるさと民話第2集では、子供たちに郷土の産業の歴史を楽しみながら学び、産業と自然との関わり、さらに人間と自然のあるべき姿に思いをはせればと願い、同年代の少年を主人公に、物語形式をとり編集した。
 
 『ふるさと民話』第3集“歴史のなかから” 平成6年3月発刊
 第3集“歴史のなかから”に収録した作品は、いずれも、郷土の個性的な歴史的事柄を取材した作品であり、子どもたちに「郷土再発見」の心が芽生えることを願い編集・発刊した。
 プロローグの〈初めての和人〉は、町の記録に“享保五年、西村善次郎、下北より移り住んだ”とある。〈寅次じいさんの豆〉は、現在の字日ノ浜が浜中と呼ばれていた頃は、“前浜一帯にイワシが群来し、いくつもの番屋が建ち、砂丘にはたくさんの海浜植物が花を咲かせていた”と記されている。
 〈日浦の孝女れん〉は、松浦武四郎が“羽太正養休明光記”からの引用として蝦夷日誌巻之五にのせている。〈ムサの台の溶鉱炉〉は武田斐三郎が、五稜郭に設置する大砲を鋳造するために、設計・築造した洋式高炉の古武井溶鉱炉“について築造から廃棄までを描き、背景として日本の近代史の一端を記している。
 〈七ッ岩の光仏像〉は、下北の佐井村から取材した話であるが、郷土を商圏とした高田屋嘉兵衛に関わる話として創作した。
 

ふるさと民話集 第1集

 

ふるさと民話集 第2集 古武井鉱山物語

 

ふるさと民話集 第3集 歴史のなかから