三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃)

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 『新羅之記録(しんらのきろく)』に享徳三年(○○○○)(一四五四)入島した安東政季が、同族である。秋田の湊安東家の招きによって本州に帰還した時、
 「下の国(茂別)は舎弟茂別八郎式部大輔家政が領し、河野加賀右衛門尉越智政通を副として置かれ、松前は下の国山城守定季が預(あずか)り、相原周防守政胤を副とせられ、上の国は蠣崎武田若狭守信広が預り、政季の聟(むこ)蠣崎修理太夫季繁を副として置かれ、それぞれ夷賊の来襲を守護せしむ」と報告し、更に
 「長禄元年(一四五七)五月十四日、夷狭蜂起(いてきほうき)、来て志濃里(しのり)の館主小林太郎左衛門尉良景箱館河野加賀右衛門尉政通を攻撃し、その後中野の佐藤三郎衛門季則、脇本の南条治部少輔季継、穏内の館主蒋土(こもつち)甲斐守季直、覃部(およべ)の今泉刑部少輔季友、松前の守護、下の国山越守定季、相原周防守政胤、祢保田(ねぼた)の近藤四郎右衛門尉季常、原口の岡辺六郎左衛門尉季澄、比石の館主、畠山の末孫厚谷右近将監重政の重鎮を攻落す。然れども下の国の守護茂別八郎式部大輔家政、上の国の花沢の館主蠣崎修理大夫季繁固く城を守り居れり」と述べている。
 
1、信広の渡島
 「新羅之記録」に蠣崎信広渡島する時に佐々木繁綱、工藤祐長の外に、蠣崎の土豪、酒井七内、石黒喜多右衛門、布施新六、麿呂市兵衛、細谷品右衛門等七人がつき従って大畑から渡海したと書かれている。
 
2、安東政季渡島
 「伊駒政季朝臣は、十三之湊盛季の舎弟安東四郎道貞の息男潮湯四郎重季の嫡男なり。十三之湊破滅の節、若冠(じゃっかん)にて生け捕られ糠部(ぬかのぶ)の八戸(根城(ねじょう)南部)にて名を改め、安東太政季と号し、田名部を知行して家督を継ぐ、而(しか)して蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、阿野加賀右衛門尉越智政通、計略を以て、享徳三年(一四五四)八月二十八日、大畑より出船して狄の島に渡るなり。」
 
 「註」 安東政季蠣崎信広等が、享徳三年(一四五四)八月二十八日に大畑から蝦夷地に渡ったということは誤りで、康正三年(一四五七)二月二十五日という南部側の記録が前後の事蹟から判断して正しいと思う。松前史を書いた者が蠣崎信広の前歴を穏すために、故意に康正三年を享徳三年とした節(ふし)がある。
     信純が下北を逃れて奥尻島に漂着したのは、夏や秋ではなく、早春の寒気厳(きび)しい季節であったことが古書でうかがわれる。武田信広は蠣崎蔵人信純であることを隠すための作為が、松前史を書いた者によってなされたことは明らかである。