汐首燈台
昭和四十二年八月一日、郷土史資料調査のため、汐首岬の高台にある観音堂を訪れた。
堂内には、大漁の神様として尊崇されている童神像、大間から来た修行僧が汐首で病死し、その僧が背負って来たという伝えのある弘法大師像や石地蔵と、全身に金泥(きんでい)を塗った木造仏が安置されており、どれがこの堂の本尊なのか区別のつかない状態でおかれていた。
木造仏は顔面や頭部に手が加えられ、形が変えられているが、円空上人作の観音像でないかと判断し、昔から村人が「観音堂」としていい伝えていることから、この堂の本尊仏は、円空上人作と思われる観音像であろうと推定した。
然し円空仏の鑑定に自信がなかったこと、顔面や頭部が円空仏の特徴を失うくらいに変貌していること、円空仏研究家は「蝦夷地に渡った円空は下海岸には足を入れなかった」といっているので、半信半疑であった。
そこで函館市在住の仏教研究家、須藤隆仙氏にその鑑定を依頼した。十一月六日、須藤氏が来村し、一見して「円空仏に間違いがない」と鑑定し、新聞に報道されたりして一躍脚光を浴びたのである。
北海道における円空の足跡研究では、「円空は下海岸には足を入れなかった」ということが定説になっていたので、従来の定説を覆えす発見であったのである。したがって円空仏が後世、他の地域から汐首に移されたのであれば、汐首の円空仏の価値は半減する。
汐首村は草創の古い地域で、汐首神社の創建は、元禄四年(一六九一)と伝えられている。汐首観音堂の草創年代は不明であるが、汐首神社の創建よりも古いといい伝えられている。円空が汐首に来て仏像を納めたのは寛文六年(一六六六)と推定されるので、円空の納めた観音像を祀る堂がつくられて観音堂と呼ばれ、その後ここに汐首神社が創建されたものであろう。即ち観音堂と神社が同じ境内に建てられたのである。
その後観音像が今の〓松田家の西側に移転したという。この頃はまだ、高田屋嘉兵衛が寄進した、御影石の鳥居があったといい伝えられているので、寛政十二年(一八〇〇)以降、天保四、五年(一八三三―三四)頃までの間と推定している。
明治二十六年(一八九三)の火災で、堂の一部が焼け、この火災の時、観音像に着せていた着物と顔面、頭部が焼けこげたという。
明治四十年(一九〇七)に、地蔵町にあった地蔵堂に移転した。
昭和十二年(一九三七)、戸井線の鉄道工事が始まり、地蔵堂が鉄道敷地になったため、現在地に移転したのである。
このような経過を辿って、汐首神社の境内に建てられた観音堂は、三度場所を変えたが、円空仏は災害を免れて現在に至ったのである。
明治二十一年頃、下北から来たという「大間の坊さん」と呼ばれた修行僧が持って来た竜神像を、観音堂に祀り、これを祀ってから鰮の大漁が続いたので、竜神堂とも呼ばれるようになり、円空観音と知らない村人たちは、後から祀られた竜神像を本尊と考えるようになった。観音様にとっては、新入者の竜神さんに「ヒサシを貸してオモヤを乗っ取られた」形になり、住居の名までも竜神堂と呼ばれ、憤慨(ふんがい)していたものと思う。観音堂の観音様が地蔵堂に間借りしたため、現在は地蔵堂と呼ばれている。地蔵堂には、観音、地蔵、竜神が同居して、何れが本尊かアイマイな状態で祀られているのである。
昭和三十六年七月、信仰者たちが、焼けこげている円空観音を修理することになり、函館市の仏壇屋に依頼して修理した。円空仏と知らない仏壇屋は、顔や頭に手を加え、全身にうるしを塗り、その上に金泥を塗り、円空仏の特徴を失わせてしまった。誠に残念なことである。背面に円空銘などもあったのではないかと推定される。円空仏の修理費として七千円支払った。同時に竜神像も修理させ、この修理費として六千円支払った。
仏壇屋の無知と金取主義のため、貴重な文化財円空仏を変貌(へんぼう)させたことは、誠に残念なことである。
円空上人は美濃国(岐阜県)竹が鼻(羽島市)に生れ、寛文四年(一六六四)美濃の美並村、福野の白山神社に御神体を納め、行基の徳風を慕い、仏像十二万体彫刻を発願し、諸国遍歴(へんれき)の旅に出た。蝦夷地に渡ったのが、寛文五年(一六六五)で、翌寛文六年(一六六六)までの二ヶ年間、道南地方を遍歴して、久遠の太田山権現(ごんげん)、江差地方、松前地方、知内、木古内、上磯、七飯附近に仏像を納め、寛文六年の六月から八月頃にかけては、虻田の礼文華、有珠の善光寺等に仏像を納めて、蝦夷地を去ったのである。蝦夷地に渡る時には、どこからどこへ渡ったか、蝦夷地を去る時にはどこからどこへ渡ったかは不明である。
蝦夷地を去ってから、寛文七、八年の二ケ年津軽地方、下北地方を遍歴したようだ。即ち三厩の義経寺再興が寛文七年、下北、田名部の熊谷家に寄偶していたのが寛文八年といういい伝えや記録があり、更に寛文九年には美濃国武儀村、雁曽礼の白山神社に神像を納めているという事蹟から推定される。
下北佐井村の村勢要覧に
「佐井村長福寺に安置されている十一面観音像は、一木一体のナタ削(けず)りと称され、美濃国僧、円空上人の作仏であり、寛文八年(○○)(一六六八)、北海道よりの帰路(○○○○○○○○)、佐井において作られたものである。この仏像は、昭和三十六年十月六日、青森県重要文化財に指定された」と書かれている。
汐首の観音堂で円空伝が発見されたこと、菅江真澄は円空の辿った道筋をそのまま辿り、各地で円空仏について、くわしく記録し、蝦夷地を去る時は松前から下北の奥戸(おこっぺ)に渡っていること、佐井村に円空仏があることなどから、円空は帰路、戸井の汐首か松前から、下北の大畑か佐井あたりに渡ったものと推定している。
円空は寛文七年秋頃まで蝦夷地にいたことが推定されるので、下北、津軽遍歴は寛文七年後半から寛文八年までと考えられ、恐山の仏像を刻んだのか寛文七年か、八年の何れかであろう。この二ヶ年の間に、円空は尻屋をも訪れて、仏像を納めたことも推定される。尻屋部落にあるただ一つの寺院を「観音堂」と称しているので、円空にゆかりのある寺院ではないかと考えている。
明暦年間(一六五五―五七)即ち渡道前、円空の崇高な業蹟が、後西天皇の上聞に達し、上人号を贈られ、金らんの袈裟を賜わったと伝えられている。円空上人は元禄八年(一六九五)七月十五日に死去したことがはっきりしているが、その時の年令は不明である。
円空上人の道南の足跡と下北地方の足跡を推定して見ると、寛文六年八月過ぎに有珠を去り、九月か十月に汐首を訪れて、観音像を納め、汐首から大間崎を目ざして、漁船に身を托して船出し、易国間か大畑に着き、佐井、恐山、田名部、尻屋、岩屋などを遍歴して、仏像を納めたものと思う。下北地方でも、昔から観音堂と呼ばれている寺院や観音さんと呼ばれて信仰されていた場所で円空仏の発見される可能性がある。
享保三年(一七一八)六月に編集された『福山秘府』の中に、堂社の草創年代を調査した記録があるが、この中の寺社で寛文五、六年頃草創の観音堂には殆んど円空仏がある。又この書の中で「草創年代不詳」と書かれている観音堂から、後世円空仏が発見されている。
下海岸では「箱館、志苔(しのり)、銭亀沢の観音堂は、年代不詳」と書かれている。『福山秘府』に年代不詳と書かれた観音堂は殆んど、円空仏を祀ったものと考えられ、寛文五年か六年の草創と推定しても大体誤りではないと思う。
時の帝(みかど)から上人号を贈られ、金らんの袈裟を賜わったくらい高徳な僧で、日本国中に名を知られた円空上人が刻んが仏像なので、村々では堂社を新築して祀ったことが想像される。円空が僻村汐首に来て、仏像を刻んで納め、村人たちは随喜(ずいき)してお堂を建て、円空観音を祀ったので、観音堂の名と共に円空仏が伝わったのであろう。現在でも「汐首村で一番古い建物は観音堂である」という古老のいい伝えがある。
汐首の観音堂の草創を、寛文六年としても間違いではないと思う。
円空仏の特徴は、彫刻し易いようなオンコ、カツラ、ハリギリ(センノキ)などを選び、彫刻する仏像の高さに応じて玉切りにし、それを縦に二つに割り、玉切りした一つの木で二体の仏像を作る。一生に十二万体の作仏を発願したことから、このようなことを考えたのであろう。したがって円空仏は殆んど背面は平板である。この平板な背面に、製作年月日や円空署名を墨で書いたり、彫刻したものがある。背面が平板だということが円空仏の一つの特徴である。東北、北海道のものは殆んど観音像であるが、台座に特徴がある。ナタ作りといわれているように、台座は荒削りで、岩座(いわざ)と臼(うす)座の二種類ある。岩座、臼座の上に蓮華(れんげ)座があり、その上に坐像を刻んでいる。
仏像の表情は福徳円満な相で、眉毛(まゆげ)長く、眼の切れめ長く、殆んど溟目(めいもく)しているものが多い。なで肩(○○○)で衣の線がなめらかで、胸を広く現わしている。
円空仏を二、三体観察して、これらの特徴を知っていれば、素人でも鑑定できるような特徴をもっている。
汐首観音堂の円空仏は、台座は岩座で、台座とも四十五糎である。汐首の円空仏が発見された頃に、乙部町の三ツ谷でも円空仏が発見されたが、これも金泥を塗られており、台座は臼座で、高さは台座とも二十五糎である。
汐首のものは、函館称名寺のものと、大きさ、形、台座とも殆んど同じである。
北海道にある円空仏の大きさは、三ツ谷のような小型のものもあるが、大てい四、五十糎のものが多い。大型なものでは百四、五十糎のものもある。
『福山秘府』には、「神体円空作」の堂社として、二十五社を挙げているが、そのうち観音堂が十九である。二十五体のうち昭和四十二年発見された、三ツ谷観音堂のものを含めると現在までに十八体が確認されている。汐首観音堂の円空仏は『福山秘府』に記載された以外のものである。
七飯町大中山の富原喜久夫家に、完全に保存された円空仏が一体ある。高さ六六・五糎(二尺二寸)巾三十三糎(一尺)厚さ十糎(約三寸)のもので、用材はカツラである。富原家のものは上の国村木の子、光明寺のものと同型である。光明寺の円空仏は高さが五一、八糎(一尺九寸五分)である。