前幕領時代になり六箇場所では、場所請負人が廃止されると同時に、旧運上屋は会所と改められ、交通の要地には番屋(通行屋ということもある)が設置された。
番屋というのは、会所を村役場とすればその支所ともいうべき所で、小村を治める役所的な仕事と交通の要地にあって馬や搔送り船・休憩宿泊などの世話をしてくれる所のことである。この番屋の責任者を「番人」と呼んでいたが、寛政十二年(一八〇〇)の『アッケシ出張日記』によれば、「椴法華、番人武左衛門」の名前が記されている。このことに依って前幕領時代椴法華港には、この番屋が存在しており旅客や荷物などを取り扱っていたことがわかる。
また寛政十二年の『蝦夷道中記』の記録では、尾佐別(尾札部)-ホトホッケ(椴法華)三里、ホトホッケ-繪丹内(根田内)一里余、繪丹内-尻岸内二里半、を海路により旅していることが記されており、この時も椴法華港は中継地として利用されていることがわかる。この制度は後松前藩時代、更に後幕領時代になっても続けられており次に示すような記録が残されている。
天保年中(一八三〇~一八四三)と考えられる『東蝦夷地道中略記』に「椴法華、箱館ゟ拾三里半、此所、稲荷社宮有り、此処ゟ尾札部迄海岸搔送り三里半」とある。また安政四年(一八五七)の『公務日記』によれば「尾札部より船にてカキ送リヽシシ鼻を廻じ岩石之出崎を廻る洋ニて椴法華村(以下略す)」と記され、安政三年(一八五六)の『福島屋文書第六十七』によれば、椴法華-古部間の船賃を持荷一艘弐朱と記されている。これらのことから椴法華と近村を結ぶ道路が完成されていなかった江戸時代の椴法華港は、船は小型であったが重要な中継港としての働きをしていたことが知られる。
その後元治二年(一八六五)の「沖之口番所」の記録である『元治二丑年正月諸書付』には椴法華から本州へ鱈を直送する願書が記されており、この時代になると大型の北前船が椴法華港へ入港し、直接本州へ向け出航していることがわかる。