鱈釣り漁

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 鱈釣り漁期が近づく十月になると、仲間が集まって釣り針の手づくりをする。
 針金を曲げ、鑢(ヤスリ)で擦る。鑿(たがね)を置いてアゲをつける。冬中の釣り針五千本、六千本をこしらえた。
 鱈釣りの村々は、あちこちからチャッチャッと釣り針を造る音が聞こえてくる日が続く。
 尾札部、見日の漁師は、手石拾いに日影浜に舟でいく。百五〇個から二百個の手ごろな石を拾い集めてきて、前の年の繩糸でくくって、藁で編んだ手石袋に百個ぐらい入れて舟に積み込む。
 手石は、這繩笊一枚を配(は)く(打つ)ごとに終(しま)いの針に引っかけて投げ落す。
 そして漁期を前に、乗組み仲間(なかば)の主婦達は、秋の野山に出かけ、萱(かや)・ドンゲ(いたどり)を刈り取り、背で浜に運んで、鱈割(さ)きの囲いや小屋掛けをした。
 鱈釣り漁は、一番鶏(どり)が鳴くと(午前二時ごろ)起きて飯を炊き、身仕度をして船出する。
 朝(あした)に明日(あす)の日和をみて、前浜から漕ぎ出した。よい漁場に他船より早く着くためには、舟を海におろす時のゴロを打つ音さえ隣りの船人にきこえないように気をつけて、先を競って出漁した。
 櫓を漕ぎ櫂を操って、沖へ出ると帆を挙げて走(はし)る。陸地(おか)の見えなくなるまで六里も七里も沖へ走らせる。
 南部山が見えると繩打ちにとりかかる。木直沖か古部沖から室蘭へ指して這繩を打っていく。
 水深は中瀬で百二、三〇尋から百五〇尋。沖の中瀬になると百八〇尋から二百尋もたつ。
 繩を配(は)くのは、オモテ乗りの役目。サイバンに腰をかけ、両脚の間に這繩笊を四、五枚おき、右手で釣り針をとり、左手で餌を掴んで針に掛けて配いていく。
 漕ぎながら配いていくのはゆっくりだが、舟を走らせながら配いていく走(は)せ配(べ)は休む暇なく、一寸の他所見(よもみ)もできない忙がしさだ。オモテ乗りの副船頭が達者だと、トモの船頭は楽だ。繩を配くうち手許が狂って餌を持つ左の指先を針でひっかけてしまう。指先に針をひっかけても手を休めることができない。数をくりかえすうちに、左の指先が削りとられてボソボソになってしまったものだ
 と、尾札部の吉川菊蔵翁(明治二七生)は、熱をこめ頑丈な指先を見せながら語ってくれた。
 中乗りは胴の間乗りで、餌(イヤ)切りの役。懸命に餌を切ってオモテ乗りの手許に続けながら、オモテ乗りが一〇本打つうち三、四本ぐらい左打ちして手伝う。
 這繩笊一枚は、百尋約五百尺(約一五一メートル)から百五〇尋七百五〇尺(約二二七メートル)の延長で、釣り針は七〇本から七五本。
 一枚打ち終わると、手木で次の這繩に繋いで配いていく。七、八枚で中瀬(樽=旗印はつけない)をつける。
 秋は這繩笊三〇枚(釣針二、一〇〇本)、春は四〇枚(釣針二、八〇〇本)から四五枚。
打ち終わると午後一時半から二時ごろになる。天気が好ければゆっくり食事できるが、少し空模様が怪しいときは、大急ぎで食べて繩とりにかかる。
 一時間に四、五枚しか引きあげられないから、夜どおし繩をとり続ける。這繩を引きあげ続けると、糸で指が擦りきれて、指が裂けたり割れてしまうことが多い。
 手の損傷を保護するために、釣(つ)り革(か)を両手に履いて引く。手で刺し込んだ小幅の輪状の釣り革は、一〇も二〇も舟の舳先(おもて)から海中に吊り下げて溶かしておいて、とり替えて使った。釣り革は、回しながら繩を引くと、長持ちするし指も痛まない。
 這繩一枚分針七〇本を引きあげて、鱈二〇本釣りあげると一束(二〇尾)ぐいといい大漁である。
 繩をとり終わると夜明けになる。沖で一晩って、翌朝起きて這繩を引きあげることもある。
 「大漁が続いて、三日で百束、二〇尾が一本だから、百束で二千尾も釣ったこともある。冬至までかかって三百二〇束、漁獲(と)って木直で一番漁した。それで何(な)んぼ配当(あた)ったかというと百七、八〇円だった」
 豊漁が続いて一日に二回乗りする時は、丘人(おけと)の主婦達は、舟が浜に帰り着いたら直ぐ飛び出すように、丹前かけて着たまま囲炉裡のまわりに転(ご)ろ寝した。
 と、木直の伊予部万蔵翁(明治三六生)は、誇らしげに語ってくれた。
 
 (3)新  鱈
 新鱈は、口から包丁を入れてエラとチュウをとりつぼぬきをする。鱈を逆(さか)さにして絞(しぼ)ると鱈子(雌)、タツ(雄シラコ)が口から出てくる。口から塩を入れて、並べて塩きりをして、棧(さん)にきる(たて・よこに並べて積み重ねる)。
鱈子は主婦達のもので、餌空(いやから)は建元のものとされた。寒中の新鱈を、家の食べ用に干しておいて、夏、昆布採りの時期に、生魚(こざかな)などがないとき、掛矢(かけや)(大きな木槌)で叩いて柔かくしておかずにした。
 鱈をこしらえるとき、腹のところを切りはなすと安くなる。鱈一本三銭、一束で六〇銭。鱈子一腹一銭五厘。
 
 (4)鱈つり漁具
 釣り舟  持符モチップは、長さ六間、約三五尺、幅四尺五~六寸で、三人乗り、鱈三〇束約六〇〇本積載できる。桂のムダマでハグ(造船)。
 他の舟より早く釣り場に急ぐため、舟足を速めるため、各々舟底を削って工夫した。
 持ち舟は少なく、半数以上は借り舟に乗った。借り賃は、四尋二~三尺の帆柱に、四反の帆を揚げて走る。
 川崎船は越前衆で、四人から六人乗り組みして、長さ七尋半~八尋、幅八尺~八尺五寸、鱈釣りの代表的な船種であった。
 越前衆は、多く椴法華、銚子の澗、古部を根拠地とした。帆柱も大小二本で走った。中船は持符より小形の舟で、帆は三反帆を用いた。帆は、ウンサイを買って自分で仕立てた。
 チンコ柱は、二尋半、約一二尺ぐらいの短かい帆柱で、強風や大時化の時に用いる。帆かけ舟は自らの安全な操船、航法のために必らず準備して積んでおいた。
 大時化、暴風のときは、這繩につける手石を引き、強風と波浪に舟をたてて転覆から舟を安全に保持する危急の漁師の一つの操法であった。
 夜は、暗闇での海上事故防止に、昔は木炭火(すみび)、篝火、提灯などをあかし、のちには、カーバイトのガス灯を設備した。
 這繩笊は、割竹を簣の目に編み、藁束で円型に縁どりをした、直径一尺八寸(約五四センチメートル)、円周五尺四寸(約一七〇センチメートル)の平らな笊である。
 桁繩は三五号綿糸。やめ一〇号~一二号綿糸を長さ三尺五寸のものを七尺五寸間隔(あけ)にして笊一枚分八〇本の釣鈎をつける。
 瀬繩は結糸(いわいと)五枚、長さ百五〇尋ぐらいのものを一〇枚ごとに一本つける。
 サイ盤  車櫂を漕ぐときや這繩を配(は)くとき使う木製の腰かけ。
 アガカキ  木製の船底に溜まった海水を汲み捨てる道具で、取手をつけ、底部にブリキを張る。
 釣り針  針金を切り、曲げて鑢(やすり)で擦る。鑿(たがね)を置いてケリをつけ手造りである。
 手木  一枚の瀬繩の両端(りょうはじ)につけておく。
 イタヤの木か竹でこしらえた二寸ぐらいの手木。這繩一枚を配(は)くごとに、次の手木と結糸(ゆわいと)の間に手早くつないでいくのに用いた。
 手石
 餌箱(えさばこ)
 まっけ  レ型の木の又枝に薪木(しばき)を二本平行させ石を網で包んでくくり付けたアンカ(錨)。大正期には一貫五百匁ぐらいの鉄製のアンカを使うようになった。
 瀬樽(せだる)  正油九升入樽に屋号を書き、目印や屋号の旗を立てた樽を中瀬といい、海中に投げ入むとマッケの繩糸が自然にクルクルまわって海底に落ちていくように準備しておく。
 沖弁当  沖重鉢ともいい、大きな木製の蓋の箱弁当で、中は一口にたべるお握り四、五〇個、米飯、おかず類などを入れるように三つか四つに仕切りがしてある。
 手鈎  長さ打鈎二尺~三尺、中鈎四尺~四尺五寸、長柄物六尺
 タラ割き包丁  細身の刃渡り八寸五分(二五センチメートル)ぐらいの包丁を、二三丁常備する。
 餌切包丁  細身の一尺三寸(四〇センチメートル)
 タラ釣り漁師の服装(まかない)
     ○下着 メリヤスのシャツと股引。
     ○仕事着 西陣で手縫いした上衣(シヤツ)と股引(ズボン)をはく。
     ○みじか 手作りした綿入れの半袖。
     ○赤ケットのチャンチャンコ。
     ○てっぽう フランネル。
     ○外 ドンジャ。
     ○うんさいの合羽 ボイル油を塗ってこしらえたもの。
     ○サシコ 二枚にして刺した帆前垂(かけ)。沖でも浜(おか)でも釣り仕事のときしめる前かけ。大きいので二尺七寸、幅一尺五~六寸。
     ○釣り前垂(めだり)(まえだれ・まえかけ) 沖の船でも浜や家でも釣り仕事のときは苫で編んだり、ゴザでこしらえた長い前垂を使う。
     ○ネルの風呂敷かぶりして、その上に手拭いで鉢巻きをする。本フラ(フランネル)。大幅二尺四寸四方(七五センチメートル)、並幅一尺二寸(三六センチメートル)。
     ○履物 ツマゴ。藁で編んだツマゴ。濡れると駄目だが滑らないし暖かい。
     ○釣(つ)り革(か) 釣り糸を引きあげるとき手に履く輪状。糸で刺してつくり、いつも代替を紐にとおして結んでおく。
     ○てっけし 二本指の綿入れの大きな手袋。手の掌は木綿糸で刺してあり、最近まで北海道の田舎で重用された。
 川崎船  明治の末から大正年間にかけて、大型の改良川崎船に六人乃至八人乗り組んだ。越後や越中、越前からの入稼ぎが盛んになった。
 川崎船は二枚棚の構造につくられ、持符船に比して大型で、速力もはやく、冬の荒波でも安全性が高く、風上にも逆走することができたので、鱈の漁場をもとめて北上するために大きな役割を果たした。
 
 (5)鱈釣組合
 古部稲荷神社台帳に「大正三年 タタミ拾五枚寄附 越前川崎一同」とある。
 「大正十一年 四拾五円寄附 川崎船組合 組長小松三蔵外一同」このとき川崎九隻と付記されている。
 当時、古部、木直の新鱈は、函館新鱈組合の定期船として小樽丸が回航して船積みし函館に直送された。東京へ直送したのもこの頃である。
 同じく台帳に次のように記されている。
 
  大正十一年 壱百円寄附 古部鱈釣り組合
               組長 中村 忠作
               同  中村 辰助
               同  中村由太郎
               同  佐藤留五郎
                   外 一同
 
 組長は三人乗りの各釣り船の船頭である。
 
  昭和八年正月十五日
   火鉢 壱個 寄附(古部)鱈釣組合一同
              小松三蔵
              竹下友雄
              伊勢又二郎
              前野松蔵
              佐藤留吉
              山川美和吉
              池見重吉
              佐藤仁三郎
              佐藤精太郎
              杉谷長次郎
              岡初之助
川汲稲荷神社社殿入口の奉納額「稲荷神社」に鱈釣中と刻字されている。
 
      タラ釣り漁を語る    豊崎  二本柳文平(明治二一年生)談
  タラ釣りは、一〇里ほど沖へ出た。明治までの漁船は概ね倭船、持符で口四尺四~五寸、長みは五尋三尺ぐらい、三丈三尺、それは大きい方だ。帆と艪ではしった。
  南部の恐山をみて、一漁(ひとりょう)は一二日だった。一艘舟三〇〇から二〇〇束ぐらい、一束二〇本、六、七年先までは豊漁であったが、それ以後は薄くなった。タラは場所をかえた。五〇年前までは、古部から銚子かけて見日の沖あたりがよかった。その後、三〇年前までは木直で、よくいけば先振り二〇〇~三〇〇束はとれた。
  一一月三日に繩おろしをして大晦日、正月までを一期(きり)とし、当時はほとんど新鱈でツボ抜きして塩をきった。これを倭船に積んで大阪、東京へ送られた。
  明治初年までは〓の小川の上に倉が三つあって、尾札部から鹿部までの二八を納める倉だった。昔は税金を現物で納めた。更に四〇年遡れば上四つに私六つだった。
  二八を納めると、焼酎八合買ってぐっとひっかけて櫂(け)を漕いて帰った。
 
                       汐谷フサ(明治一四年生)
     鱈つり漁家           木直            談
                       船登  (明治二二年生)
  鱈釣りは三人乗りで、夜あけかけて二回乗りもした。三日で一〇〇束も釣った。鱈子一腹一銭五厘の頃、一〇〇束祝、千束祝をした。鱈は九月から釣った。年明ければ背割りにした。二回乗りする頃は、女達は丹前きて炉辺にごろ寝した。五束一俵の割で塩をもってくる。それを六束にしたりして塩を帆待(ホンマジ)(ほまち=へそくり)した。
  尾札部の山中の親方が鱈買いに来て舟に積んでいった後に、鱈頭(たらがしら)がヤッカシカ落ちていたもんだ(塩が足りなくて魚がこなれていたものか)。鱈は磯舟に入れた。古部さも鱈釣りに出稼ぎした人もあった。
 
     鱈つり漁          木直 伊予部万蔵(明治三六年生)談
  俺(おら)も木直で、冬至までかがって三〇〇束ってば一番漁、大漁したごどある。三二〇束で木直で一番せえ。三二〇束ってば、本数にしても何ぼもねえ。ども、それで何ぼ当たったがってば二〇〇円か一七〇円ぐらいだ。
  これあ、船ええしてたて、釣れねもんだしのー。村内でその時、大きい、四枚(しめ)ぱぎの、張りの一はいできた家あったども、余計漁しれねがったものー。俺ど赤沢さんから買った船、大した漁したものー。一(ひと)漁二八束なんぼ積んできたこどある。
  カワセわーんわんてきたもんだもの。繩引っぱって、一束ぐいってばええほうだんだ。七〇何本の針でね、二〇本てば大漁なんだ。その時だば、一束ぐいしたんだ。一枚ふっぱれば一束ずつ、そのときは一八束、一八めふっぱって一八束積んできた。古部沖であど二間おいできたのか、カワセふいで、家(え)さえげば着けられねえしてって、丁度いいどごで繩ふさがってのー。元から次の日凪だ時、上風。すぐ凪して取にいったけの、五~六本ずつしかくってねがったまし。丁度くってだどこまでで置がさってきたまし、夢中になってまいてもー、そらまげ、そら捲げって、その頃。
 
     鱈釣り遭難  ①      大船 中村喜一郎(明治三〇年生)談
  昔の漁師は皆勇敢であった。イカはその年によって漁もちがうが、鱈だけは当時、随分釣ったものだ。鱈釣りの遭難があった。私も死ぬ目に三回出会った。
  一番鶏が鳴くと(二時ごろ)起きて、船を出し、艪をこぎ、櫂をかいで帆をかけて南部山(恐山)見るまで六里も沖に出る。駒ヶ岳の地肌も見えない沖合だ。朝に、明日の日和をみて出る。沖で一晩って次の晩までに帰り着く。
  一枚の繩をうつのに一時間もかかることがある。四〇枚ぐらいの繩をうってしまうと日暮れになる。尾札部から室蘭口指してうつ。古部・木直は鱈釣りが盛んで、じょんから節にある鱈釣り口説のとおりだ。今の漁師は楽なものだ。当時、磁石はあったから丑寅で行くとしたら、矢尻が卯をさすか巳をさすか、その矢尻をみて帰ってくる。とにかく丘にさえ着けばいいのだから。風が強くて、ここ一番というときはチンチン柱をもって一尋(ひとひろ)ばかりの帆をかけて逃げる。
  瀬の上といって一五〇尋から二〇〇尋の水深のところは、鱈もいれば鮊(かすべ)もいる。キンキン、メヌケなんでもいる。そこから少しいくと急な深みで、穴におちれば三〇〇尋もたつ。そこには、いるのは猫に似た猫鮫だけ。
  私達が遭難したその日は、繩をうちこむまでは天候がよかった。乗組は〓(またいち)成田要之助、竹越文之助、加藤忠次(明治二三生)に私(明治三〇生)であった。
  うったらヒカタの風がふいてきて、五メートルから六メートルの大波になった。丘にある砂も飛んだという程だった。尾札部からは南吹く、南西の風で大船のヤマセ。
  大浪にもまれながら、もう、これっきり海の底、地獄の底にいくのか。これで海底の藻屑ときえるのか、と覚悟したことは何回もあった。
  さぎりが飛んで舟は水びたしになってしまった。舟の中を泳いであるいた。五月というときだったから裸になって、瀬樽の尻底をぬいて海水をかき出した。転ぷくしたら終わりだから、手石(鱈つりには手石を三〇貫も四〇貫もつんでいって、繩をはやく沈めて魚のくいをよくする)をアンカに結糸(ゆわいと)でひかせると舟は風上にたつ。こうして流されて風におされて、もう肉眼で苫小牧の家が見えるところまで流されていった。このまま流されて、たとい丘にいっても、舟が転覆して死ぬかもしれない。
  と、その時、汽船が見えた。私たちを救助にきてくれたのだ。当時、椴法華・鹿部間の運搬船だった共益丸という船が、地元の要請で函館から出て探してようやく見つけたのだ。
  地元では、「〓(かねまるいち)の共同船(ぶね)はもう死んだべ」といっていた。九死に一生とはこのことだ。その時私が一番年少者だった。他はみな嬶持ち。「喜一郎よ、これで大丈夫だぞ」と、みんな私を励ましてくれた。
  救助に来た船からロープを投げてよこすが、その波と風だからなかなかロープにつかまれない。何回も何回もやって、やっとのことで危険をおかしてロープをつかんで、艫と舳先(おもて)をとおして引かれたが、大きな船にひかれるのは恐しい力で、いつ舟がこわれるかわからないほどガリガリと音をたてていくときの気持は何ともいわれなかった。着いたときは、艫も舳先(おもて)も毀れてしまっていた。
  二回目の遭難は、寒中で、私と加藤忠次と二人乗りで磯船に乗ってタコ釣りしたときだった。
  銚子口・水なし口・恵山口かけて、今の辰ガワセ(北から急に吹いてくる風)に出あって作業中、帆をかけて走っていて転覆してしまった。寒中のことだ。今、体のあったかいうちに助けがくるのならいいが、―あの大灘である。死んでも船から体が離れないように―。私は舳先で、一人は舵につかまって―互いに自分自身に引導をわたしてしまった。
  これを、同じタコ釣りの僚船が私達の転覆を目撃していてかけつけ、救助してくれた。成田要五郎と成田正治の二人に助けられた。道具は放棄したが、生命は助かった。すべて無理が生ずる結果であった。
  いろいろのことがあって、何故に鱈釣りなどという商売を生命をかけてしなければならないかと考えた。たとえ、粥(かゆ)をすすっても、襤褸(ぼろ)をさげても、何かこの海で、この村で出来る仕事がないものかと思案した。
  それで、鱈釣り商売は止めました。
 
     鱈釣り遭難 ②      木直 長谷川喜代作(明治三八年生)談
  この出来事は、私の十八歳のときだった。大正一一年一二月中旬、この日は天気は良好で、沖の風も良く午後一時ごろ出漁した。
  当時、船の装備としても帆と櫓、櫂よりほかになく、夜間操業にしても電気でなく瓦斯ランプで操業に苦労した時代で、乗組員も三人。船頭は佐藤金次郎(明治二五生)、佐々木勇吉(明治三一生)、私(明治三八生)は数え十八歳だった。
  今では子供のように思うが、当時は一人前として漁場へ雇われたり、親もそう思った時代だった。
  昔は一番繩、二番繩と操業した。むろん櫓を漕いで鱈場を目指し汗だくで場所を競う出漁だけに、疲れ切って配繩を始める。配繩は何枚とか何十枚と数える。
  配繩を終わり、止め錨を降し、暫らく時間を待つ。
  その間に食事をしたり、次の繩取り作業の準備にそなえる。今まで良かった天候がだんだん悪くなり、雪が降り始めて来た。急いで繩取りにかかったが次第に降る雪が烈しくなり、風も出てきた。全力で繩取りに懸命になった。初め風は北東の風で次第に強くなり波もたち、繩取り作業はますます苦労になり、短い冬の日は、すぐ薄暗い空となってしまった。
  懸命に操業を続け、繩を取り終わる頃は風が一層強く、波も高くなり、雪はすでに船内に積もり、漁具の形さえも見わけが出来ない程だった。日が暮れて真暗となり、瓦斯ランプの灯りを頼りに帰港に向かった時は、すでに午後八時ごろだったと思う。かもめや水鳥が瓦斯ランプの光に迷い込み、ランプに突き当たったり、落下してくる。
  雪のため、一寸先も見えない。次第に天候が悪化し心細くなってきた。風は北東より北西の風に変わり、波は次第に打ち合いながら高くなり、船は波にもまれて、風が強いため帆を五尺ばかりの高さに引き下げて走った。
  波が船に入るたびごとに海水を杓でかき捨てる。こうして帰航中に不幸も不幸、舵を折ってしまった。もうどうすることもできず、陸も山も、灯も他船のも一つとして見えない。止むなく船頭は舳を逆にして船を走らせ続けた。船頭は櫂を持ってオモデの方に行き、櫂で舵を取りながら蛇行を続けた。聞こえるのは雪と風、波の音だけで、大きな波が寄せてくるたびに、さがれ、さがれ、と大声をあげて波に向かって叫び続けた。いまにも船が転覆するのではないか、救いを求めようにもどうすることも出来ない。
  私はまだ年が若いだけに、一時泣き叫んだ。しかしこれも長続きはしなかった。泣き疲れて、波の恐しさも忘れて夜の荒海にもまれていた。
  風と波に流されて、夜どおし互いに疲れてしまった。漂流の夜の海で航行する汽船に出合って救いを求め、叫んでみても汽船からは何の反応もないまま通り過ぎて行ってしまった。「救いの神に捨てられた」かと泣いて天を恨んでも、どうすることもできない。
 まわりはただ真暗で、波と船体に吹きつける風の音だけで、手のほどこしようもない。皆、疲れ果てて何も出来ない。船諸共思うままただ流れ続けた。
  夜中に再度、大型汽船と出会い、この船をのがしては救いの神がないと、三人で遠かろうと近かろうと声の限り力のかぎり叫び続けたが、この汽船も我々を見捨てて通り過ぎて行ってしまった。もう死ぬんだとあきらめて流れ続けていた。死を覚悟しながら、救いの神を求めながら一夜を過ごして、夜明けの朝を迎えた。
  雪も止まず、風も弱まらず、依然、変わらぬ大嵐が続いている。朝になって四方を眺めると、どうです、驚く勿れ、津軽海峡を過ぎ、三陸の沖合に漂流していたのだ。かすか陸地の方向に尻矢崎の灯台が、今考えると、西方何十里の遠くに見えた。
  時たま降りがついて山も灯台も見えなくなる。また、生きた心地がしない。死を決した我々は、ただ留守の家族の事だけを思い出していた。腹は減り、何も出来ない状態になり、三人抱き合って泣き続けた。暫くして、汽船が見えた、と叫んだ。指さす方向を三人同時に目を向ける。瞬間、汽船の煙が見えた。汽船が我々の遭難現場を通る汽船かどうかもわからぬままに、三人で万歳を叫び救いを求めました。
  煙だけ見る我々は、苦しい時の神頼みとはまさにあの時のことだった。次第に雪も薄くなり、時たま陸も見えるようになり、我々の船と陸の距離も何十里もに見える。でも、陸を見ただけでも助かることを信じた。
  時間がたつにしたがい船体も見えるようになり、ますます元気がでてきた。風も依然と変わりなく吹き荒れている。波も高く、船体は今にも転覆するようになり、汽船と陸が見えてから死ぬ気持がなくなり、生きることだけ考え、元気を出して汽船の来るのを待ちながら、生命と船体を守り続けた。
  次第に汽船は我々の方に向かって来るのを確認した。もうこうなれば、船に入る海水など捨てることも忘れてしまった。目の前に接近した。見るからに大きい。早く助けられたい一念のみ。しかし、汽船は次第に我々の船を通り過ぎていく感じがしてたまらない。汽船を見ると、船員が二人、ブリッジの上に積もった雪を懸命にはき捨てている姿を見た。その時、今だ救いの神だ、三人立ってカッパを脱いて振り回し、声の続く限り大声で叫んだ。その時、願いが届かずに汽船が過ぎ去るような感じがした。
  佐々木勇吉は過ぎ去っていく汽船を見て「もう駄目だ。汽船が行った」と、がっくりした淋しい声を出して伏せてしまった。
  そのとき私は、スクリューの水が逆回転して船尾の波がもりもりと浮かび、あふれてくるのを見た。年輩の二人が悲観しているところへ私は「ゴスタンバックだ。助かった」と飛び上がった。しかし、波は高くて何も出来ない。汽船は停止した。方向を変えて我々の船の周りを三回まわった。
  不思議にも周辺の波は油を流したようになり、海面は静かになった。汽船は我々の船に船尾から近づいてきた。
  繩梯子を降してくれた。三人とも我先にとタラップによじのぼり、無事に汽船の甲板に足を踏みつけることが出来た。船長が高いブリッジの上から、船は駄目なんだけど、と叫んだ。体だけでよろしいから助けて下さい、と願った。
  汽船に救われ周辺を見ると、依然として大嵐だった。船員に導かれ機関室に招かれた。寒さと一昼夜の遭難に耐えた三人の体はここで暖められ、夢路に着いた。どのくらいたったかわからないまま眠ってしまった。
  助けられたのは午後二時ごろであった。船員に聞いたら「本船は大阪から室蘭に石炭の積取りに行く汽船で、航行区域でよかったね」と言った。船名は第二厚田丸、屯数一、七〇〇屯と記憶している。救いの神なので、生涯忘れず覚えている。
  この夜中も風が烈しくなり、本船でさえ航行不能になり、尻岸内の前沖に避難し停して凪ぎるのを待った。夜中に、船員が我々のところに見舞にやってきたので避難した理由を話した。船員は「強風なので明朝まで待機する」というのでした。その時思ったのは、この大きな船でさえ航行不能になる程の強風の真夜中に、あのまま漂流していたらどうなっていただろうかと、身震いして止まらない思いであった。
  この汽船こそ、本当に救いの神であったとあらためて考えた。第二厚田丸に助けてもらった恩は、一生忘れられない。
  翌日、夜明けに錨を上げる音が耳を打ち、覗いてみると東の方は明るくなっている。機関室に寝ている我々だけにエンジンの音がする。汽船は再度航行を開始して室蘭に向かって進んだ。恵山の灯台の沖合を通る時分は、太陽も出初めていた。昨日にひきかえ、海上は油を流したような好凪である。銚子沖を通る頃、我が家のある海岸の方を見ると、帆かけ船が四、五隻も恵山方向に進んでいる。後日、聞くところによると、この時の帆船は、遭難した我々を捜索に出た船であったとのことだ。室蘭に向かって航行中、自分らの前沖を通ったのは午前十時頃と思った。甲板を歩いていて船長に会うと、船長は「君達の村はどの方向か」と聞いた。その時は、すでに村を通り越しておりました。
  船長は「早くわかっていたら、汽笛を鳴らして知らせたのにな」と有難い言葉を戴き感激した。
  汽船は次第に室蘭に向け航行を続けた。晴天で沖凪もよく、救助された我々を歓迎しているようにさえ感じられた。丁度、今日で二日目、家の方では心配していることだろうと思い、一刻も早めに生存を知らせたかった。
  愈々室蘭に入港となった。もう薄暗く夕暮れとなり、汽船は人命救助の信号旗を揚げて入港した。錨を降ろすと、間もなく状況をくわしく聞き、調べを受けた。我々は船長の意見に従い、我々も当時の状況をくわしく説明して、約一時間余りで調べも終って上陸することになった。もう真っ暗であった。
  仲間の佐々木勇吉の兄弟が、当時、室蘭市海岸町の臼井呉服店に奉公していたので、まず、その臼井呉服店を目あてに世話になることにした。水上警察では、知合いのところがなければ、警察で面倒みてあげるという有難い言葉もあったが、我々は佐々木勇吉と一緒に臼井呉服店を訪ねた。
  訪ねた呉服店は予想以上に大きな店であった。事情を伝えてお世話になることになった。御主人の案内で大広間でもてなしを受けた。遭難に会ったままの我々の姿は、無論、着ているものは漁師の服装のままだったが、夜中でもあり、人に見られて恥ずかしいなどと一向に考えもしなかった。
  疲れた体を風呂に入れてもらい、食事を戴きました。三日間の空腹に充分に夕食をとったので、腹いっぱいになったのと、安心したのとで三人は、ぐっすり眠った。
  当時、室蘭と森町の間に海上の定期船が通ってあった。昔は蒸気と言っておった。愈々室蘭港より森に向け帰ることになった。朝の三時ごろでした。臼井呉服店に挨拶して別れることになった。臼井さんから新しい足袋と草履と手拭い一本ずつ戴いて定期船に乗った。
  臼井呉服店に行く前、水上警察の方で、心配している自宅の方へ救助されたことを電報で知らせてくれていた。
  汽船が森港の波止場に着いた頃は朝であった。森町から函館行の汽車に乗った。乗ってみると、お客さんが立派な服装で沢山乗っている。我々の姿はみすぼらしい漁師のヤン衆姿である。恥ずかしい思いをしながら汽車の客となった。隣りに坐っておった客の一人が、急に僕の傍から席を移した。年の若い私は、本当に恥ずかしかった。
  そうこうしている間に、汽車が終着駅の函館に着いた。もう夕方だった。函館には、当時、委託問屋といって、漁師のとった干魚や生鮮魚や海草などの委託販売の取引をしている店が多かった。今のように協同漁業組合もなく信用委託取引であった頃のことだ。我々の取引先である海岸町の委託問屋〓坂本という海産商の店に行き世話になった。夕方でもう木直へ帰る船もないので、坂本の店で一させてもらい明朝立つことにした。
  当時、函館と我々の海岸の村を定期の船が運行していた。茅部丸・鳳至丸・厚田丸・昭星丸など。時化になれば連絡が止まることにもなるので、常に食糧だけは準備して置いたものだ。
  陸の運搬としては道産ン馬を使った。急病人の時は、沢山の人々が病人を戸板に寝せて肩で担いで函館に運んだものだった。
  我々が出漁して以来四日目をむかえて、いよいよ今日は我が家に帰れるのか、親に会うことができるのか、と喜びで胸が一ぱいだった。家の方では、我々の生存をついに諦めて葬儀の準備さえ始めたと函館の委託店で聞いた。
  今のように交通通信の便がよければどのようにも思うままに連絡出来るのだが、なにせ当時は、陸の便も 悪く、歩くだけでも容易ではなかった。いよいよ汽船に乗って帰途についた。
  汽船もあまり早い方ではない。昼過ぎに椴法華に着き、風が強いので椴法華より先へ行かないことになってしまい、椴法華から山越えをして古部に立ち寄り、親類の者たちと会った。本当に涙の対面でした。古部を立って臼井川に向かったが、夕方になったのでせかれるし、何処まで行っても山越えばかり、苦労しながら、親兄弟に会いたい一念で一足でも先を急いだ。
  山を越え、海岸の石浜を踏みつけ、崖の岸は海水をこぎわけて、漸く夕方になつかしい我が家に帰りつくことができた。