(1)郷土の鰮漁場
延宝五年(一六七七)、郷土漁業開拓の先駆者、初代飯田屋与五左衛門は、尾札部の八木浜の鰯(鰮)の群来をみて、漁場の将来性を確信して、この地に来住したと伝えられている。いわゆる八木川河口の浜(海面)は沿岸(最高)の鰮曳網(ひきあみ)の好漁場として大正年間まで永い歳月、鰮漁で賑わった。また、弁天島を望む横澗と呼ばれた海浜(海面)も砂浜つづきの好漁場であった。現在の臼尻漁港のところである。
北海道史諸誌は、鰮から油をしぼり締粕(しめかす)を製造することは、安永・天明のころには亀田近在、東蝦夷地でおこなわれていたとしている。
寛政一〇年(一七九八)、幕吏中村小一郎は松前蝦夷地盛衰報告に、「近年、鰮漁相始り右漁業の場所へも二、三軒づつ家作取立有之」と記している。また、東蝦夷地日誌(寛政一二年・一八〇〇)に「佐原(砂原)鰮ヲ取リ油ヲ取ル釜数多」と記されている。
(2)与五左衛門・幸吉の漁場開発
与五左衛門と幸吉の鰮漁場開発について、両者の事蹟調(明治一六年)からその足跡をたどると、郷土の沿岸のみならず、幸吉は文化三年(一八〇六)山越内(八雲)に漁場を開き、文政二年(一八一九)三代与五左衛門は長万部ポロナイ(国縫辺)、さらに胆振の樽前に進出して鰮曳網を経営した。この翌年、文政三年(一八二〇)幸吉は、山越内(八雲)の山崎と銭亀沢の漁場など両者ともに広い地域に鰮漁場の経営に当たっていた。
与五左衛門・幸吉の鰮漁場開発
年 代 | 漁場主 | 場 所 | 網ノ種類 | 統 数 | 収穫高 | |
明暦(一六五五)~ 延宝五年(一六七七) | 初代 与五左衛門 | 尾札部村八木浜 | 鰯(いわし)引網 | 一ヶ統 | 六〇〇石 | |
文化三年(一八〇六) | 幸吉 | 臼尻村 | 鰯引網 | 一ヶ統 | 五〇〇石 | |
〃 〃 | 幸吉 | 山越内村 | 鰯引網 | |||
〃七年(一八一〇) | 三代 与五左衛門 | 椴法華村アイトマリ | 鰯引網 | |||
文政二年(一八一九) | 三代 与五左衛門 | 長万部ポロナイ | 鰯引網 | 一ヶ統 | } | (四〇〇石) |
七〇〇石 | ||||||
〃 〃 | 三代 与五左衛門 | 胆振樽前 | 鰯引網 | 一ヶ統 | (四〇〇石) | |
〃三年(一八二〇) | 幸吉 | 山越内村山崎 | 鰯引網 | 一ヶ統 | } | 七〇〇石 |
〃 〃 | 幸吉 | 銭亀沢 | 鰯引網 | 一ヶ統 | ||
〃五年(一八二二) | 三代 与五左衛門 | 落部モノタイ | 鰯引網 | |||
安政五年(一八五八) | 幸吉 | 尻岸内村古川尻 | 鰯(引)網 |
(3)嘉永以後の鰮漁
嘉永七年「六箇場所書上」に拠れば、前年嘉永六年(一八五三)の村々の鰮引網の網数と鰯〆粕の生産高は
椴法花 一 投 四、六〇〇貫
木直 二 投 一、二〇〇貫
尾札部 三 投 五、〇〇〇貫
川汲 一 投 八〇〇貫
板木 ―― ――
臼尻 二 投 六〇石
熊泊 ―― ――
と記されている。また、安政二年の東蝦夷地海岸図台帳には、六箇場所書上にある翌年の生産高が次のように記されている。
尾札部 木直 いわし粕 二〇〇石目
尾札部 夏いわし粕 六三〇石目
秋いわし 皆 無
川汲 夏いわし 九〇石目
臼尻 板木 ―― ――
臼尻 夏いわし 三五石
熊泊
嘉永年間既に鰮の引網は、沿岸漁業を支えていたのである。
開拓使事業報告に次のように記している。
山越郡の鰮漁場は「長万部村字幌内ヲ第一トス。天保中ハ漁獲極テ多ク、漁家百有余戸。
安政以降遂年薄漁トナリ、近年ニ至テ山越長万部ヲ合シ僅ニ十数戸ヲ存ス。他村入稼ノ者アリト雖モ収獲多ラズ、多ク引網ヲ用フ」。
茅部郡は「砂原村ヲ第一トシ、夏季漁獲アリ。傍近諸村亦同シ。
戸井・小安・尻岸内村ハ冬季漁獲ス。近年稍豊漁ナリ。概ネ引網ヲ用ヒ差網ハ僅々トス」。
亀田郡は「函館下湯ノ川・志苔・銭亀沢・石崎四村ハ冬季ノ漁獲ナルモ、慶応中ヨリ年々、減少ス。但時トシテ遽ニ群集スル事アリ」。
とある。亀田・茅部・山越の沿岸は往時秋鰮もあった。しかし、安政年間以降、薄漁になったと記している。