渡島の港門

398 ~ 399 / 1034ページ
函館は綱知らずの良港として、昔から船舶の入津が多かった。安政元年(一八五四)三月、外国船に対して下田・箱館二港が開港され、日本の代表的港として明治以後の百年にわたる繁栄への道がひらかれた。
 臼尻港は、函館以東室蘭に至る海岸の中で、道南における屈指の天然の良港として諸国の大船(たいせん)が多く寄港して昆布などの海産物の積み込みで賑わった。
 大きな湾口の東側には、弁天島と呼ばれる島嶼が連らなり、天然の船掛り澗として、最良の自然の条件を備えている。
 寛政年間から文化年間にかけて、幕府の蝦夷地直轄期に入ると、六ヶ場所中とくに椴法華臼尻新鱈は、秋、五、六百石以上の帆船が入津して新鱈を積み込んで江戸の正月に向けて帆走し市価を高めたといわれる。
 明治となり蝦夷地は北海道として開拓使が置かれ、亀田半島にも平穏がおとずれる。中心の政都として札幌の建設がはじまると、すべては札幌に向けて道順がとられた。
 かつて津軽三厩から松前・江差へ、下北佐井から箱館・襟裳・釧路へむかう流れのなかで山陰在とよばれた昆布の名産地は、明治五年、札幌新道が函館-森-室蘭-札幌へと流れることにより郷里は再度時流にのれず、以後一〇〇年、山陰在の悲哀に時を待つことになるわけである。
 明治二三年八月、函館新聞に連載された「室蘭港へ渡船すべき渡島國の港門臼尻港」開設の提唱がある。提唱の内容は、当時、函館から北海道庁のある札幌への公式のルートは、函館から森に至り海路室蘭に渡り、千歳山道を経て札幌に至る経路であった。
 室蘭への海路はそれぞれ森より二二海里、砂原より二〇海里、臼尻より二六海里であるが、森は風浪を避けることには適せず、明治五年就船以来たびたび休便したり、室蘭から出航しても風波のため森に入港できずにひきかえすことが頻繁にあった。
 函館新聞は「臼尻港を以て森より勝りたる港門なり」として世に訴えた。森より臼尻が勝れるもの二点、「一は港湾として」、「二は函館との距離」をもってその主張をした。
 臼尻村の東にある岬より五つの島嶼が横澗より沖合六丁に点在する。弁天島中の島、沖の島の乾(いぬい)に当たる茂佐尻岬と二艘澗の間約一九丁、水深六、七尋ないし一二、三尋、廣袤(こうぼう)東西一二丁四〇間、南北一五丁三〇間、七〇六、八〇〇坪。
 これにくらべ森港は岬や入江なく、東西一五丁、南北五丁二四間、水深四尋半、二九二、三五〇坪である。
 函館より森・臼尻に至る陸路をしらべると、その距離は函館・森陸路一一里、森・室蘭二二海里。函館より上湯の川川汲を経て臼尻へ八里、臼尻・室蘭二六海里である。