有間浜の所在

63 ~ 65 / 553ページ
比羅夫は齶田平定後、さらに進んで、津軽蝦夷の拠点の一つである有間浜(ありまのはま)にまで至って、そこでさらに遠方の渡嶋(わたりのしま)蝦夷を集めて大宴会を催している(史料二二末尾)。
 比羅夫は、かねて交流のある津軽蝦夷の仲介で、渡嶋蝦夷との接触に初めて成功し、そこで大いにもてなして帰順させ、大和政権と朝貢関係を結ばせるための第一歩としたのであろう。現在の北海道の「渡嶋」は「おしま」と訓(よ)まれているが、『日本書紀』の「渡嶋」は、『釈日本紀』(鎌倉時代末期に成立した、現存最古の『日本書紀』の注釈書)の伝える「秘訓」によれば、「わたりのしま」と訓む。
 ここで問題となるのは、有間浜と渡嶋の現地比定である。これは比羅夫の北方航海の北限に関わる重要な論点となる。このことについては学界で長い論争があって、いまだに決着をみていない難しい問題である。
 ただ有間浜については、話の展開などから考えて、齶田浦からある程度北上した、おそらく西津軽郡深浦(ふかうら)町か鯵ヶ沢(あじがさわ)町あたりの津軽半島西海岸のうちに比定するのが自然であろう。西海岸には比羅夫来航伝説とも関わる日和山が、深浦(写真32)にも鯵ヶ沢(写真33)にもある。音の類似からいうと深浦町の吾妻(あづま)の浜(写真34)も有力な比定地の一つである。

写真32 深浦町・日和山


写真33 鯵ヶ沢町・日和山


写真34 深浦町・吾妻浜

 有間の音(おん)が、『津軽一統志』付巻「津軽(郡)中名字(なあざ)」(史料九一五)の伝える中世の北津軽の郡名とされる江流末(えるま)郡の音に近いことから、岩木川河口の北津軽郡市浦村の十三湊付近とみる説も有力ではあるが、「津軽(郡)中名字」が伝えるところの、江流末郡・奥法郡・馬郡といった中世の諸郡名の実在性には疑いがあり、にわかにはしたがえない。
 なお有間浜の名前の由来について、この年十一月に勃発したいわゆる「有間皇子の変」の主人公の名と結びつける説が古来より著名である。比羅夫の越国への派遣は、あるいは有間皇子派と目される比羅夫を都から遠ざけるためであったともいわれている。