渡嶋津軽津司

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以上見てきたように、太平洋側でも日本海側でも、徐々に律令国家の力は北へ北へと浸透していったわけであるが、しかしそれはまだ青森県域には遠く及ばなかった。
 八世紀の律令時代の青森県に関する文献史料は極めて少ない。県下の地名がみえるものとしては、『続日本紀』養老四年(七二〇)正月丙子条の、「渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男(もろきみのくらお)ら六人を靺鞨国に遣わして、その風俗を観察させた」とある記事(史料六五・写真40)がよく知られているが、これもなかなか解釈が難しい。

写真40『続日本紀』養老4年正月条
8世紀において「津軽」の文字がみえる数少ない史料。

 まずこの「津司」というのが、古代国家においては他に例をみない特異な役所なのである。またそもそも「渡嶋津軽津司」の訓(よ)みも諸説ある。「わたりのしまのつがるのつのつかさ」「わたりのしまとつがるのつとのつかさ」「わたりのしまとつがるとのつのつかさ」などがあって、それぞれ意味が異なる。ただ「津軽」と「渡嶋」とは『日本書紀』『続日本紀』では併記される存在であり、語感としても、その二つが津にかかるとみるのが自然であるから、最後の「わたりのしまとつがるとのつのつかさ」と訓(よ)むのが正しい理解であろう。
 諸君鞍男については、他史料に所見がなく、どういった人物であるのかよくわからない。「諸君」という姓も、他にはみえない珍しいものである。名前の方の「鞍男」は和人的ではあるが、中央から派遣された人物であるのか、どこか日本海岸の地方の人物であるのかの区別をつける手掛かりになるものではない。
 ただその地位は「従七位上」である。外位(げい)ではなく内位であるから、東北地方の在地の人間ではなかろう。中央では下級官人の部類に属する地位であるが、東北地方に来るとそうでもない。律令制下では中央政府内の「司」という段階の役所の長は、だいたい六位クラスの役人の職であり、鞍男がこの津司の長であるとするとそれよりやや低いようにも思えるが、東北地方の場合、このころは出羽国守でも正六位前後である。つまり鞍男は当地ではなかなか高位の人物なのである。やはり諸君鞍男は、出羽国司らとともに中央から派遣された人物で、その地位の高さからすると、かなり広範囲の地域を管理していたとみるべきであろう。おそらく津軽あたりの日本海側から、渡嶋の北限である道南部にかけての地域の港や、さらにはその後背地、そしてそれらの諸港をつなぐ海上交通全体をも管理していたに違いない。
 こうしたことから考えて、役所そのものは、おそらくのちに秋田城の置かれたあたりか、あるいは比羅夫も軍船を連ねた齶田浦(雄物川河口付近)に面した海岸付近にあったのであろう。津軽地方に置かれていた可能性は薄いものと思われる。一説には北との交流の痕跡を見出せる遺物を出土した秋田市の後城(うしろじょう)遺跡との関係が取り沙汰されているが、確証はない。
 またこの「津司」という役所名は、文献史料的にはこの「渡嶋津軽津司」が唯一であるが、最近、石川県金沢市の畝田(うねだ)・寺中(じちゅう)遺跡から「津司」と書いた墨書土器が発見され、注目を集めている(写真41)。これはもう少し格下の郡衙(ぐんが)付属施設を指す可能性が高いが、当時の主要交通路である日本海側には、こうした海上交通に関わる公的役所がいくつか置かれていたのであろう。

写真41 寺中遺跡出土の墨書土器 「津司」と墨書されている(石川県金沢市)。