九世紀まで、北の世界は、ついに律令国家体制には組み込まれなかったのであるが、一〇世紀後の中央政府の変質と密接に関係して、この時期以後は、何らかの形で南の中央からの力と深くかかわらざるを得なくなっていった。
坂上田村麻呂の時代までは、中央政府の政策として、「柵戸(さくこ)」という形で積極的に和人を蝦夷の住む地域に強制移民させて、それを支配の基盤とするのが普通であった。ところが「三十八年戦争」による国家の疲弊でそれが不可能となり、次第に在地の蝦夷系の有力者を、現地支配のかなめの在庁官人として登用するようになっていった。
通常、この時代の在庁官人というと、もっぱら収入を得るためだけに名目的に国司の職に就いて現地には下向しない「遥任(ようにん)」国司に代わって、在地で実権を握った人々を連想するかもしれないが、陸奥・出羽ではそうではない。陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府が多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では秋田城の出羽城介が、それぞれ事実上の「受領(ずりょう)」官として赴任するようになり、実権をふるったのである。
彼らは厳密には受領官ではないが、延喜十四(九一四)・十五年ころから、任地への赴任に際して、受領官同様に宮中で「罷申(まかりもうし)」を行い、餞別(せんべつ)の禄(ろく)(衣服・酒肴・馬など)を賜ることが恒例化しているので、受領待遇を受けた特別受領であったと見なすことができる。『新儀式(しんぎしき)』巻五には「受領官にあらざるも」受領と同様の扱いを受け、現地赴任が原則であることが明記されている。またこの官は、天皇の秘書局的存在であって天皇の支配権と外交権をつかさどる蔵人所(くろうどどころ)から直接、牒(ちょう)という文書が発せられる対象であった。
そしてその鎮守府将軍・秋田城介には、次第に源氏・平氏といった軍事貴族が任命されるようになっていった。歴代の鎮守府将軍を挙げれば、平国香(くにか)・良持(よしもち)・良孫・良文(よしふみ)・貞盛(さだもり)といった平氏一族、また藤原魚名(うおな)の流れをくむ藤原利仁(としひと)・有頼(ありより)・有象(ありかた)、藤原秀郷(ひでさと)の流れをくむ藤原千常・千方・文脩・兼光(かねみつ)といった、いずれも坂東の武門の名門の一族から選ばれている。
一方の秋田城介には、藤原利方・源満生・平兼忠(かねただ)(繁盛(しげもり)の子)・源頼盛(よりもり)(満仲(みつなか)の子)といった人物が挙げられる。こうして他には例をみないほど、奥羽には坂東の武士たちが多数入り込んでくるようになり、他に先駆けていち早く武士の社会が形成されつつあったのである。