元慶の乱以後は大きな争乱はなくなったとはいえ、先にも触れたように、寛平五年(八九三)には渡嶋狄(てき)が奥地(出羽の北に広がる郡制未施行地域)の俘囚と騒動を起こして(史料三五一)、元慶の乱が収束に向かっていたときにも、「義従俘囚」(政府側についた俘囚)が、「反乱軍を殲滅(せんめつ)させないと後で必ず復讐(ふくしゅう)される。仇家は多種であって、大変恐れている」と述べており(史料三三九)、奥地にはさまざまな蝦夷集団がなお残っていた。その動向は一定しておらず、いつ反乱が起こるともしれない状態であったのである。
また延喜十五年(九一五)七月に噴火した十和田火山の影響で、出羽地方には大量の火山灰が降り注いでいる(『扶桑略記』)。これは当地方の稲作農業などに相当の被害を生じさせたものと推測されており、以後しばらく社会不安が増大していた状況にあったことも考える必要がある。
出羽からの反乱についての第一報が届くと、時の最高権力者であった太政大臣藤原忠平(関白基経の四男)はさっそく陣定(じんのさだめ)を開いているから、中央でもこの反乱が重大事であると受け止めていたことは確かである。政府はまず出羽国に対して精兵の訓練警固および国内の浪人の軍役への動員、また国家辺境の守護神である鳥海山大物忌(おおものいみ)神社(写真59)に占いを命じたりしている。九世紀以降、東北地方で何か不穏な動きがあると、しばしばこの神が正史に登場するようになっている。
写真59 大物忌神社(山形県遊佐町)
国家辺境の守護神として名高い。
しかしことは容易には収まらず、先にも触れたように北から「異類」が攻め来たるなど、次第に元慶の乱と似たような様相を呈し始めた。六月には陸奥から援軍が送られたが(史料三七六)、なおも戦闘は続いていて、時の秋田城司介源嘉夫(よしお)が譴責(けんせき)されたりしている(史料三七九)。ただ八月を最後に関係史料がみえなくなるので、一応このころには終結したらしい。
この乱については、それ以上の詳細は、元慶の乱の場合とは異なって残存史料が希薄なために不明である。ただ元慶の乱とは異なって、藤原保則や小野春風のような、中央から官人が派遣された形跡がないことが注目される。中央では陣定まで開いているから、決して全国的な意味を持たなかったわけではない。ここまでは元慶の乱と同じである。しかし一〇世紀にもなると、前項でも触れたように、地方政治は現地で対処するのが原則となっていったので、ここでも東北の兵乱については現地で兵力をまかない、処理することが求められたのであろう。そして実際それを処理できる勢力が、この東北地方でも育ちつつあったのである。