すでに詳しく見たように、平泉藤原氏が滅亡すると、奥羽両国は鎌倉幕府の支配下に入り、頼朝によって多くの鎌倉武士が奥羽に地頭・地頭代として配置され、やがてその多くは得宗領となった。津軽三(四)郡には得宗領の地頭代として、曽我・工藤などの諸氏が入部した。
それに対して、その北方に広がる陸奥湾岸から下北地域にかけての外浜・宇曽利・中浜、あるいは日本海岸の西浜については、この時期の譲状や安堵状などの史料がなく、その詳細は不明である。あるいは「蝦夷地」(ないし「蝦夷の住む地」)として、得宗領への編成がやや遅れたのかもしれないが、それにしても鎌倉末期まで伝領についての史料がまったくないのはいささか不審である。
鎌倉末期については、この地域の多くは安藤氏の所領として史料に登場するので、それを遡(さかのぼ)らせる見解が有力である。安藤宗季(むねすえ)(五郎三郎季久(すえひさ))が子息の犬法師(高〈師〉季(たか(もろ)すえ))に与えた正中二年(一三二五)九月十一日付の譲状(史料六二一)には、譲渡する諸職の内容として、津軽鼻和郡絹家島(けんかしま)・尻引(しりひき)郷・片野辺(かたのべ)郷と糠部宇曽利(ぬかのぶうそり)郷(下北半島)・中浜御牧(なかはまのみまき)・湊(みなと)以下の地頭代職が見え、その五年後、やはり宗季が高季に与えた元徳二年(一三三〇)六月十四日付の譲状(史料六二八)に、関・阿曽米(前)を除く津軽西浜の譲渡がみえることから、安藤氏の支配領域は津軽・南部両地方にわたり、津軽地方では鼻和郡内諸郷・西浜(現在の当市域および西津軽郡から北津軽郡にかけての一帯)、また南部地方では下北半島一帯が含まれていた可能性が高い。
具体的にそれらの地名を考えてみると、津軽鼻和郡内の「絹家島」と「片野辺郷」については現地比定が困難であるが、「尻引郷」は現在の弘前市三世寺のあたりである。青森市後潟のいわゆる「尻八館」という名称は、この「尻引」を「尻八」と誤って伝えたことに起因しており、現地比定としても正しくない。弘前市三世寺の付近には、平泉政権と密接なかかわりを有するものと思われる中崎館遺跡が存在する。この地を安藤氏が所有しているというのは極めて象徴的なことでもある。
「湊」については、それを十三湊とする説と、下北半島の内に求める説とに分かれるが、配列のみからいうと後者に分がありそうではあるものの未詳。近年では十三湊説が有力である。
「関」は現在の深浦町。著名な「関の亀杉」にその地名が残されている。ここは当時、安藤氏の妻の一期分であったため(史料六七一ほか)、譲状からははずされている。
ただし右掲の二点の安藤嫡流家に関する譲状に、津軽半島の陸奥湾側である外浜の名がみられないことから、外浜を安藤一族の所領とは見ない見解もある。しかし鎌倉幕府末期の安藤の乱(後述)当時、安藤宗季派が外浜に築城したこと(史料六一七)、外浜の伝尻八館跡の支配者が、出土品から見て安藤氏と考えられることから、外浜も安藤氏一族のものと見るのが穏当なところであろう。宗季譲状にその名がみえないのは、すでに支族の領掌するところとなっていたと解すべきなのかもしれない。ただ鎌倉幕府滅亡のころ、外浜が闕所地(けっしょち)であったことは確かである(史料六五五)。
いうまでもなくこれらの所職は得宗北条氏の被官としてのものであるが、その被官化の時期は不明である。建保五年(一二一七)に北条義時が陸奥守となってから北条氏の奥州支配が強まってくるが、そうしたなかで、北条氏は海上交易の利に着目して安藤氏を被官化しようとし、安藤氏もまた被官化することが自己の発展上有利と考え、遅くとも鎌倉中期までにはその被官となったものと思われる。