足利尊氏の離反

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建武二年(一三三五)十月、天皇親政をスローガンとする建武政府に対する武士の不満を結集して、足利尊氏(あしかがたかうじ)(写真153)が後醍醐方に公然と反旗をひるがえし、時代は南北朝の内乱に突入する。

写真153 足利尊氏

 尊氏は、鎌倉幕府滅亡後、隠岐(おき)から脱出したばかりの後醍醐天皇から鎮守府将軍に任ぜられており(征夷大将軍には、すぐ後に護良(もりよし)親王が任じられた)、鎌倉幕府の有していた東夷成敗権、またそれを現地で体現する蝦夷沙汰権を自ら掌握しようとしていた。尊氏は外浜・糠部郡の北条泰家(やすいえ)遺領を与えられ(史料六五五)、本格的に北奥地域の掌握に取り組んでいたのである。こうして蝦夷沙汰の職務と鎮守府将軍の地位とが、密接な関係をもつようになっていった。
 しかし建武二年八月に、離反した尊氏が建武政府から鎮守府将軍の職を解かれると、北畠氏は後醍醐天皇に積極的に働きかけて、同年十一月、陸奥北畠顕家鎮守府将軍を兼任することとなり、陸奥国府が積極的に蝦夷沙汰を掌握するようになっていく。
 北を征する者の強みは、この直後の尊氏征討を目指す北畠顕家率いる奥州軍の見事な長征の成果によって知られるであろう。後醍醐から尊氏追討を命じられた顕家は、十二月に義良親王を奉じて多賀城を出発し、わずか二十日たらずで京都に到着するという快進撃であった。尊氏は九州に追い落とされ、顕家は見事に京都奪回に成功したのである。
 なお、建武三年二月に、正三位の地位にあって将軍職に就いたことから、顕家は特に「鎮守府大将軍」と名乗ることを許された。