曽我貞光の奮戦

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しかし翌暦応二年には、陸奥国内では南朝方が必死の巻き返しを謀(はか)ってくる。同年三月には北条一族と称するものを筆頭に、南部氏や成田氏・工藤氏らの南朝方が大挙して曽我氏本拠の大光寺外楯を占拠した。それに対して貞光は、曽我本宗家の師助(もろすけ)の援助を仰ぎながら三ヵ月かけてそれらを追い払っている(史料六八〇・六八一)。
 師助は、関東曽我一族の惣領であると自認しており、弓の名手として尊氏に仕えていたが、このころ陸奥に下向し、奥州総大将石塔義房によって郡検断奉行に抜擢されていたらしい。師助はのちに義房に従って上洛し、将軍奉公衆にまでなった人物である。
 同年六月には安藤氏の一部に南朝方に寝返るものが出て、安藤四郎なるものが、安藤氏の所領内の尻八楯(すでに述べたようにこれは「尻引」の誤写で、鼻和郡尻引付近。現在の弘前市三世寺(さんぜじ)あたり)へ攻め入った。合戦奉行安藤師季(もろすえ)とともに曽我貞光は奮戦するが、かなりの犠牲を払うこととなった。九月には貞光の本拠(平賀郡岩楯カ)も南朝方に襲われ、十月には平賀郡尾崎にて合戦が行われている(史料六八二)。
 ちなみにこの年八月、後醍醐天皇が吉野で死去した。後を継いだのは、かつて北畠顕家とともに奥州にあった後村上(ごむらかみ)天皇(義良親王)である。奥州で南朝を支える南部政長・信政(のぶまさ)親子に対しては、陸奥介・鎮守府将軍北畠顕信(あきのぶ)を再度下向させている。もっとも陸奥国府多賀城は石塔義房が固めていた。顕信が具体的に陸奥国のどこの地に拠点を置いたのかについては、なお明確ではない。顕信としては陸奥国府を奪回するのが最重要課題であって、南部政長に対して、それに関連してさまざまな指示を書き送っている(史料六八四)。この書状によれば、岩手西根(にしね)を平定した政長には、さらに南進して斯波を平定するように命じ、それが成功すれば南朝方であった葛西一族を和賀・薭貫(ひえぬき)郡に進出させるので、陸奥鎮圧は極めて容易になるであろうと述べられている。
 しかし暦応四年(興国二年、一三四一)になると、今度は曽我貞光側の巻き返しに見るべきものがある。六月、尊氏の御教書を得た曽我師助は、貞光とともに南部政長の本拠糠部に進撃した。そして翌年の冬まで一年有余の間、糠部にとどまり、貞光自身傷を負いながら数十度の合戦に及んだのである(史料六九九・写真155)。これは右に述べたように、当時北畠顕信陸奥国府奪還作戦に協力中であった南部政長を、いやおうなく糠部へ引き返させることになったわけで、その功績は大きいといえよう。南部側の記録である『八戸家伝記』などに、政長がこのとき師助を討ち取ったなどとあるのは、まったくの誤伝である。

写真155 曽我貞光軍忠状案

 この間、貞光は暦応三年には本宗家の師助と同じ左衛門尉に昇格し(史料六八三)、また同四年七月には平賀郡加土計(かどけ)郷(現弘前市門外付近)を預けられ(史料六八五)、また五年七月には師助から本領相模国足柄上郡曽我郷内の田畠を、その猶子として譲与されている(斎藤文書・遠野南部家文書)。また何時(いつ)のころからか平賀郡柏木(かしわぎ)郷(現平賀町柏木町付近)も支配することとなった(史料七〇〇・七〇一)。