第三節 南北交易と「境界地域」津軽

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 中世後期の遺跡からは、前期までの遺跡に比して数倍から数十倍の遺物量がみられるようになる。もっとも特徴的な出土品として、生産地や流通量が理解できる陶磁器があり、鉄製品銅製品石製品などすべての出土品の量が増大する。十三湊をはじめとする港湾遺跡や城館の発掘調査の結果から、従来の貧困な北のイメージには似つかわしくない豊かな生活状況が理解できるようになった。
 この背景には、津軽地域および夷島の各種物資が相当量南に向かって流通し始め、その見返りとして陶磁器銭貨がこの地域に入り込んだと考えられる。
 『庭訓往来(ていきんおうらい)』の語句の意味を注した『庭訓往来抄』では、交易のことを「交易トハ運送ノ義也、京ノ物ヲ夷中(いなか)ヘ下シ、夷中ノ物ヲ京ヘ上スルヲ云フ、」と説明して、「京」と「夷中」の相互物流を交易としている。津軽を中心とする北奥や夷島へ「京」から入った物としては前述した陶磁器のほか、鉄製品(鍋・釜・大工道具など)・銅製品(仏具・装飾製品など)・石製品(硯(すずり)・茶臼(ちゃうす)・温石(おんじゃく)など)・銭貨など多数の製品が想定される。しかしながら、「夷中」から「京」へ行ったと想定される具体的製品を示す資料は少ないが、『庭訓往来』には、「奥州の金、宇賀の昆布、夷の鮭、奥漆」(史料七三九・写真167)などがあり、京都においても特産物としての価値を認められていたようである。また安藤氏が室町将軍足利義量(あしかがよしかず)に献上したなかには、「馬、鳥羽、銭貨、海虎(らっこ)皮、昆布」(史料七六四)がみられ、いわゆる天然捕獲の物産を主体として南に供給し、二次加工するような鉄・木・石などの製品は多くない。

写真167 『庭訓往来』
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 交易や文化交流という視点から、考古学的に理解され始めた津軽地域のようすをみることにしよう。