このような陶磁器の広域搬入は、中世前半にみられた搬入の在り方とは段違いの状況となり、汎日本的な交易システムの中に北日本地域も組み込まれていったと考えることができる。ただし、津軽地域が平野部を中心に分布し、多量の出土を示すのに対し、北海道・下北地域は海岸部や河川の河口を主要な分布域とし、分布の密集度が分散的であり、一遺跡からの出土量も少ない傾向を有する。
図46に示された遺跡の分布をみる限りでも、北日本における交易の進展を想定できる。とくに一六世紀になると津軽地域に搬入される陶磁器の量は、地域の拠点的城館である浪岡城・大光寺城・石川城・堀越城・大浦城・種里城などを中心として相当の数が認められ、城館を中心とした都市的な場の形成とともに、自立した地域領主たちの姿が認められるのである。
図46 15・16世紀における北日本の陶磁器出土遺跡
ただ、前述した十三湊の動きを別にすれば、出土陶磁器のうち中国製品の量が国産製品の量を凌(しの)ぐという現象と、政庁的な場面で使用される「かわらけ」の稀少性は、北日本社会をみる上で重要な視点である。
一般に、中国製品(青磁・白磁・染付など)の出土する場所は国産製品だけが出土する場所と比較して、身分が高い人が住むとか、経済的に優位に立つ人々が住む場所と考えられていた。たしかに、畿内周辺での陶磁器の経済的価値をみると、かわらけが一文に対して中国製染付皿三文、中国製白磁菊皿一五文、さらに建盞(けんさん)と呼ばれる中国製天目(てんもく)茶碗などは八千文という値段までつくことがあり、唐物を珍重する傾向は強い。つまり中国製陶磁器には、所有者の権威が内在しているのである。
しかしながらこの権威性も、碗・皿という日常食器に関しては次第に中国製と国産の差がなくなるようで、権威性は茶器や酒器・置物といった愛玩(あいがん)製品に限られてくる。列島的にみると一五世紀においては中国製品より国産製品の比率が高かったのに対し、一六世紀に入ると碗・皿という食膳具に関しての比率は逆転する現象が認められる。このことは中国製品の大量供給を示すとともに、国内の主要生産地であった瀬戸・美濃では、窖窯生産から大窯生産へと移行し、量産体制による安価な製品で中国製品に対抗しようとした結果である。
また、問屋のような施設に一度集積された陶磁器、たとえば中国製の碗・皿と国産の瀬戸・美濃などの碗・皿の原価(仕入れ値)は、前者(中国製品)が高く後者(国産)は安いものであったのに対して、中国製品が供給過多になったことにより、遠隔地に搬出するためのコストに反映されなくなったとも想定され、北日本に搬入された陶磁器は中国製品も国産品も同じ「舶載品」としての扱いを受けた可能性がある。