奥羽地方の戦国時代

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戦国時代の奥羽地方については、大きく南奥羽と北奥羽に分けてその動きをみることができる。ここでは、まず奥羽全体の戦国時代を概観してみよう(図59)。

図59 奥羽の群雄

 南奥羽の戦国時代は伊達氏を中心として展開していく。伊達氏は、室町時代を通じて南奥羽に勢力の拡張を続けていたが、大永(だいえい)二年(一五二二)、当主である伊達稙宗(たねむね)が陸奥国守護職(むつのくにしゅごしょく)に補任(ぶにん)された。このことをもって、室町期を通じて続いてきた奥羽探題体制の解体とともに、奥羽戦国期の開始の画期とする考え方がある。守護職補任を契機として、稙宗は領国支配体制の整備・強化に努めた。また一方で、周辺の諸氏に対して軍事行動を起こすとともに、養子として実子を送り込んだり、婚姻によって姻戚関係を結ぶなどして南奥羽の大名・国人を包摂・統合していったのである。その結果、天文(てんぶん)四年(一五三五)の時点で、伊達氏の支配は現在の福島県北・宮城県南・山形県南の地域に当たる、陸奥国伊達・信夫(しのぶ)・刈田(かった)・伊具(いぐ)・宇多(うだ)・名取(なとり)・柴田(しばた)、出羽国置賜(おきたま)の各郡に及んだ。
 しかし、天文十一年(一五四二)、稙宗が嫡子晴宗(はるむね)と対立、幽閉されたことを契機に、南奥羽一帯の大名・国人を巻き込む大規模な抗争が発生した。これが「天文の乱」と呼ばれるものである。六年にわたる戦いののちに勝利を収めた晴宗は、居城を伊達郡西山(現福島県伊達郡桑折町)から米沢(現山形県米沢市)に移し、また、大崎氏が就(つ)いていた奥州探題にも補任された。また、天文二十二年(一五五三)には、それまでの所領宛行(あておこない)の文書を一旦破棄して、新たに知行宛行・安堵を行った。このことによって晴宗は、「天文の乱」の敵対勢力を一掃すると同時に、知行制の再編を実現して、領国支配体制を確立したことになる。このあとの伊達氏は、晴宗の孫の政宗の代に南奥羽を統合して、奥羽随一の戦国大名へと発展していく。
 一方、北奥羽は陸奥北部の南部氏と北出羽の安東氏の二大勢力がそれぞれ勢力を拡張していく。南部氏は曲折はあったとはいえ津軽地方に勢力を伸ばし、戦国期に入ると南下して北上川流域へとその勢力を伸ばしていく。しかし、一族の八戸南部氏九戸氏などは三戸南部氏に準じた勢力を保持しており、戦国大名としての支配は不安定なものであったといえよう。津軽を追われた安藤(東)氏は、そののち出羽檜山(ひやま)(現秋田県能代市)に落ち着いた。蝦夷支配権を依然掌握していた安東氏は、代官である蠣崎(かきざき)氏によって徴収され上納される夷島の関税による収入や軍役奉仕などによって支えられ、一六世紀半ばに現れる愛季(ちかすえ)(?~一五八七)が蝦夷地から北出羽に及ぶ勢力となり、南部氏との間でしばしば鹿角(かづの)・比内(ひない)地域をめぐる抗争が天正期まで繰り返される。