中世の農民

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中世前期の農村経営を全国的な動きとしてみた時には、鎌倉時代の地頭や武士などにその原形を求めることができると考えられている。中世の早い段階にはまだ兵農未分離であったことから地頭や武士たちもまた有力な農民であった。彼らは農村に住み、支配農民から生産物を年貢として徴収するかたわら直接経営地をもち、自分に隷属する下層農民としての所従(しょじゅう)・下人らを使って田畑を耕作させていた。津軽地方でもおそらくそのような形で中世段階には農村経営が行われていたと考えられる。
 中世農民を土地保有の状況から大別すると、「在家(ざいけ)」と呼ばれ、土地を保有する上層農民、つぎにわずかの土地を保有し、有力農民から土地を借り受けて耕作をする農民、そして自分の土地を保有せずに、有力農民から土地を借りて耕作する農民に分類できる。そしてこれら農民の集合体が「農村」であり「村落」ということになる。
 当市域では「農村」の具体的な姿はまだ確認されていないが、県内では市浦村の十三湊遺跡町屋地区のさらに南側から一四世紀末から一五世紀初頭段階のものと考えられている畑の畝跡が六八状検出されている(写真201)。幅は二〇~四〇センチメートルで、深さが約五~一〇センチメートルと浅く、町屋に住む人が耕していたものと考えられており、作物を栽培していた具体的な姿が明らかとなってきている。

写真201 十三湊調査区検出遺構

 戦乱と飢饉が繰り返し起こり、領主の支配も不安定になりがちだった中世の後半は、農村・山村・漁村のそれぞれで村人たちが積極的に一致団結して村の力を高めた時代でもあった。潅漑(かんがい)水利の整備や肥料・農具・品種などの技術改良も進められた。領主と村人は、年貢と公事(くじ)の約束の中で助け合ったが、時には一揆という形で、領主である支配者に対して集団抗争を起こすこともあった。また村人たちは宮座(みやざ)と呼ばれる自治組織を作り、神にかけて団結を誓約し、共同で労働・神事・一揆にあたった。
 戦国時代の当市域の村落名を知る資料に「津軽(郡)中名字(つがる(ぐん)ちゅうなあざ)」がある。この「津軽(郡)中名字」とは天文五年(一五三六)に、波岡北畠氏が記録したとされる津軽の地名集で、村名の存在を知ることができる資料である(史料九一五)。これによると、津軽地域を平賀(ひらか)郡・田舎(いなか)郡・鼻和(はなわ)郡・奥法(おきのり)郡・馬(うま)郡・江流末(えるま)郡・外ヶ浜・北浜の六郡・二浜に分け、西浜鼻和郡に含められている。当市域関係では、三六ヵ所の地名が記されている(表7)。なお「津軽(郡)中名字」に記されている地名のうち、日照田(ひてりた)・河合(かわい)・角縣(かとけ)・樋口(ひぐち)・袋宮(ふくろのみや)・津合流野(つがるの)・豊内(とよない)・青女子(あをなこ)・野端(のき)・遠寺(とうし)内を除いた村には、それぞれ城館跡があったとも伝えられているが発掘調査はされていない。
表7「津軽(郡)中名字」にみられる当市域の地名一覧表
郡中名字地名現地名
平賀郡大仏鼻石川
乳井嘉承山福王寺乳井
日照田薬師堂
河合川合
新里新里
堀越堀越
角県門外
取挙取上
小比内小比内
大麻大和沢
小栗山小栗山
大沢大沢
和徳和徳
樋口樋の口
袋宮樋の口
田舎郡津合流野津賀野
鼻和郡本郷蒔苗ト言う蒔苗
豊内藤内
町田町田
独狐独狐
篠森独狐字笹元
船水船水
尻引中崎・三世寺周辺
三世寺三世寺
名久井萢中崎
鬼沢鬼沢
高杉高杉
宮館宮館
斯土沢四戸野沢
縫笠折笠
望石国吉
青女青女子
小友小友
中畑通称中畑
野端川村
遠寺内十腰内