そのような視点でみると、まず広い領域を支配するために造られた、「領主居住型城館跡」ともいえる拠点的性格を持つ城館は、浪岡町浪岡城跡や弘前市石川城跡、鯵ヶ沢町種里城跡、岩木町大浦城跡、川内町蠣崎城跡、八戸市根城跡、七戸町七戸城跡が挙げられる。
これらの領域支配を目的として作られた城館跡の特徴は、大きく二つのタイプがみられる。一つのタイプは本城(内館・本丸とも呼ばれる)を中心として、曲輪が六つから七つほど設けられるもので、それらの曲輪は空堀などによって区切られていることが特徴である。このタイプのものは主曲輪を囲むように曲輪が配置されるものと、主曲輪を囲い込まないものとがみられる。もう一つは種里城跡や蠣崎城跡のように五〇センチメートルから八〇センチメートルほどの低い段差を付けて平場を作り出すものがある。これらの段差を付けて平場を作るのは山城型に多くみられ、時期的にも一五世紀初頭から一六世紀初頭段階の古い時期のものである。
次に「家臣居住型城館跡」といえる、その領域支配の支配下に属する小領主や家臣などが居住するために作られた城館跡は、鯵ヶ沢町川崎(かわさき)城跡、弘前市福村(ふくむら)城跡、弘前市国吉(くによし)館跡(写真209)、青森市横内(よこうち)城跡、青森市野尻(のじり)館跡、八戸市風張(かざはり)館跡、七戸町大池(おおいけ)館跡が挙げられる。これら家臣や小領主が居住したと考えられる城館の大きな特徴は、曲輪が二つから三つで構成されており、規模は領主が居住する城館跡よりも小さくなり、防御性は強いものと弱いものとが見られる。またこのタイプの城館跡が北奥羽地方ではもっとも多く存在している。
写真209 坂本・国吉館跡航空写真
そしてあくまでも戦闘のためだけに作られた純軍事的な館跡、「軍事型城館跡」として、弘前市乳井茶臼館跡や相馬村湯口茶臼(ゆぐちちゃうす)館跡が挙げられる。この特徴としては、居住空間をほとんど設けず、しかも小高い山の地形を利用し、その山頂部分が中心となるような同心円状の構造をしている。
以上、これらの城館跡はどちらかというと公的な性格が強い城館の特徴である。
それに対して地方豪族が居住するために作った、私的性格の強い館も相当な数存在していたと考えられる。一例を挙げれば弘前市の乳井城跡や、同じく大和沢(おおわさわ)館跡、天間(てんま)林村天間館(てんまだて)跡、階上町小沢(おざわ)館跡などである。これらのタイプの城館の大きな特徴は、身分格差によって城館跡の規模の大小や構造が端的に読み取れることである。
また、県内で特異な性格を持つ城館跡としては南部町にある本三戸(もとさんのへ)城跡などが挙げられる。この城館跡は聖寿寺(しょうじゅじ)館跡を中心として整然とした空間で構成された政庁的な性格が非常に強いものである。
そのほか「湊」や「津」、「泊」などを支配したり監視するために作られた城館跡もみられる。たとえば深浦町の折曽(おりそ)之関に築かれた大館(おおだて)・古館(ふるだて)・陣ヶ森(じんがもり)などの館跡は日本海の海を睨(にら)むような形で作られている。小泊村の柴崎(しばざき)城跡(写真210)もまた日本海側の航海路を睨む形を意識して作られている。柴崎城跡は切岸(きりぎし)部分に積石を施した技法がみられ、さらに北側からみた時には縦土塁や縦堀が目立つ位置に意識的に設けられ、その城跡をみる人に威圧感を与える雰囲気さえ備えている。下北地方の蠣崎城跡においても、陸奥湾を望むような場所に城館を配置しており、まさに「海の城」と呼ぶにふさわしいものである。
写真210 柴崎城跡航空写真
さらに「繋ぎ城」「伝え城」「境目城」などといった、それぞれの用途に応じた館跡も存在しており、中世の城館跡といっても、その城館の用途や役割、性格によってさまざまなタイプに分けることができるのである。