このように津軽弘前藩が寛文蝦夷蜂起に深くかかわっていたため、領内に住むアイヌにとっても、蜂起と無関係でいることはできなかった。先述した七月十五日付の江戸家老北村からの指示には、外浜・十三・鰺ケ沢の松前往来船数と領内アイヌの所有船数を調査すること、飛脚の往来は「犾人」、すなわち領内アイヌの人々を用いることがあった(「津軽一統志」巻十上)。松前と幕府との間の飛脚船にも犾が徴用されており、老中奉書のような幕府の意志決定を伝える重要文書の運搬に当たっても、和人の飛脚に混じって、領内のアイヌが派遣されている(資料近世1No.八三四)。また、加勢人数として派遣された杉山吉成の隊には九人のアイヌが飛脚として従っている(同前No.八三三)。また寛文十年の蝦夷地探索に際しては、上蝦夷地に派遣された牧重清の隊に、「狄の通し(詞)候には宇鉄の四郎三郎、弥五郎犬、下人犾共四人」が随行し、蝦夷地アイヌとの下交渉を行った結果、蝦夷蜂起の原因などを聞き出すことに成功し、牧隊の任務を完了させた。一方、下蝦夷地に赴いた秋元六左衛門隊にも「左介・イソタ」という犾が通詞として随行しているほか、全員で七人の犾が同行している。さらに浦河付近で現地のアイヌと衝突した際には、随行した犾のうち三人が連れ去られ(「津軽一統志」巻十上)、衝突の際死んだアイヌの仇として殺されたという(「寛文拾年狄蜂起集書」『青森県史』資料編 近世一 二〇〇一年 青森県刊)。