耕作地の放棄と荒廃田

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元禄八年(一六九五)八月から九月にかけて、津軽から一万人余の人々が秋田領に逃げ込んできたという(「平山日記」)。飢饉下において、藩が十分な窮民対策を行えないと判断すると、人々は生き残りをかけて食料のありそうな所へ逃げた。このとき、津軽から藩境を越え秋田領へ向かった人々はそのような飢人たちであったということができよう。
 さて、津軽領では、開発のため他領から耕作者としてやってきた人々が、耕作地を放棄して本国に戻ろうとする行動が続発した。たとえば、元禄九年(一六九六)一月、石渡の非人(ひにん)小屋に居た南部・秋田の者三〇人が、本国へ帰ることを求めている(「国日記」元禄九年一月十一日条)。藩も、彼らに路銭三〇〇文・衣類などを渡し、これを認めている。
 飢饉により多くの人々が死亡し、開発のために他領からやってきていた人々が本国へ帰ることにより、当然荒廃田が生じることになる。飢饉後には、この荒廃田の復旧が課題となったことは当然というべきであろう。
 たとえば、元禄十年四月の広田組の荒廃地の書き上げによると(「平山日記」)、この年に耕作された田方は、前年の荒地開発分(復旧した分)三〇二町余を含んで八八六町余で、本来あるべき耕作面積が一〇九二町余であるから、元禄八年(一六九五)の飢饉で荒廃した田方は、五〇八町余で、全体の四六・五パーセントにのぼった。さらに、このうち、一九四町余(一七・八パーセント)は耕作者のいない「無作主分」であった。畑方でも、四六・二パーセントが飢饉で荒廃した畑方で、「無作主分」も一六パーセント存在していた。これによると、元禄八年の飢饉の結果、田方・畑方ともに、全耕作面積の四六パーセントほどが荒廃し、二年を経た段階でも一七パーセントほどには耕作者が居ないという状況であったことがわかる。また、田方では、荒廃地の半分以上の五九・四パーセントが復旧したものの、畑方のそれは三〇・九パーセントであり、田方の復旧が急がれたようである。