近世の十三湊(とさみなと)は、弘前城下の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の退転後も、十六世紀の中ごろにはその機能を回復しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三湊の再建もしくは再興が、領主権力が上方から連れてきた城下特権商人によってなされたという(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊 以下の記述は、特に断らない限り本書による)。十七世紀初めの十三町の町並みの中心・湊の部分は、中世とはかなり相違するものであった。この時期の十三湊は、「川湊(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川湊」と称される湊へと変貌していた)として岩木川舟運と日本海海運とを接続する機能を期待されており、寛文三年(一六六三)の沖横目の任命に際しても、十三沖横目が任命されていた。