猿賀神社より盗み

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文政二年(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南津軽郡尾上町猿賀神社)へ侵入して太刀・脇差など八腰を盗み逃亡した。その後逮捕されて取り調べを受け、盗んだことを白状し三〇〇日の牢居を申し渡されている(同前文政二年二月六日条)。
 これは徒(ず)刑(懲役刑)のことで、徒刑は「寛政律」の規定では、取上の御仕置場で鞭刑の執行後に、尾太(おっぷ)銅山(現中津軽郡西目屋村、現在廃坑)や湯野沢(ゆのさわ)鉱山(現南津軽郡碇ヶ関村、現在廃坑)で労役に従事することになっていたのだが、「文化律」段階で銅鉱山の労役に代わって牢居となった。すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺社奉行町奉行勘定奉行郡奉行)の命令と、「文化律」の項目「盗賊御仕置之事」の中の条文が参照されて三〇〇日の牢居となったようである。牢屋は元来未決拘置所のことであるが、右の牢居のほかに永牢(ながろう)を科された者が収容された。