道路の整備

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道路は多少の風雨によっても荒れ、人馬の往来を妨げがちになるために、藩では城下のすべての町を対象に、自分の屋敷前の道路整備を徹底するように、同じような訓令を幕末まで再三にわたって出している。その中の一部ではあるが、享保十一年(一七二六)九月、藩士に対して出された訓令の中に、広い道路・狭い道路のほか小路までも、そこに点在する大きな石を取り除き、夜でも人馬が通りやすいようにせよ、というのがみえている(前掲『御用格』寛政本 第一八 享保十一年九月九日条)これは、暗い夜に荒れた道路を歩いて石などにつまずいて倒れ、怪我することを未然に防ごうとしたものであろう。
 文化十三年(一八一六)三月に、藩士寺社町人に対して出された触は、道路の清掃と下水の手入れを前々から命じていたが、徹底されず、往来の者が難渋している、目付(大目付の指揮を受ける監察の官)を派遣し見回るから道路の整備をしっかり行うように、というものである(「国日記」文化十三年三月八日条)。
 また幕末の天保九年(一八三八)八月には、藩士に対し次のような触が出されている。
 武家町の中で、道路の悪い部分は、先年より整備するよう命じていたが、少しも改善されずそのままで、往来の妨げになっている。道路の高い所には水はたまっていないので、そこの地域の者たちは道路の整備にあまり関心がない。逆に低い所には水が流れ下ってきてたまるために、ここの地域の人々は堰を作って水を流そうと努めても水が抜けきれず、往来する人々は困っている。屋敷方を派遣するから、道路の高低に応じた堰を掘って水の流れをよくし、交通の妨げを解消するように、というものであった(同前天保九年八月二十九日条)。
 以上のことから、城下の道路整備は、江戸時代を通じて、平常の年であっても容易に徹底されなかったことがわかる。
 要するに、城下では塵芥捨場を指定して、そこに集めようとしたが必ずしも人々の協力が得られず、塵芥は捨場の近くか城下の各所に捨てられていた。一方、道路の整備は自分の屋敷前の道路を各家々が担当する方法をとったため、それが徹底できずに往来の妨げとなっていた。塵芥の散乱と道路の整備の悪さは、弘前城下における公害の一つであったといえよう。