開帳とは、寺社が厨子に入れて秘蔵する神仏や霊宝を公開して、人々に拝観させることで、居開帳(いがいちょう)は自分の寺社において、出開帳(でがいちょう)は繁華地に出向いて行うものであった。もともと結縁(けちえん)により加護を得るというのが本来の目的であったが、しだいに寺社の修復や経営の費用を賄うためへと、その目的が変わっていった。それによって寺社は多額の臨時収入を得ることができたのである。江戸では幕府の寺社奉行へ願い出て、六〇日の長期間にわたるものには許可が記録され、短期間のものは記録されなかった。三三年以上経過したものは、順年開帳として理由をつけなくても許可された。出開帳の宿寺としては、本所の回向院(えこういん)(浄土宗、東京都墨田区東両国)が最適の場所として繁昌した。ここは、看板・幟を立てた浄瑠璃・歌舞伎・見世物小屋・茶店が軒を並べ、庶民のレクリエーションの場所でもあった。『武江年表』(東洋文庫 一九六八年 平凡社刊)には、火事と並んで非常に多くの出開帳についての記述がある。なかでも長野の善光寺如来の評判が高く、元禄五年(一六九二)には一万二〇〇両の賽銭・御印文の収入があったという(『江戸学事典』一九八四年 弘文堂刊)。善光寺には、全国を巡回する回国如来と称する本尊分身如来があった。
津軽における開帳は、「国日記」にみられ、その中から特色あるものを寺社ごとにまとめて摘記しよう。