憩いの地としての南溜池

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景勝の地である南溜池を堪能したのは、藩主のみではなかった。「国日記」文化五年(一八〇八)閏六月二十日条によれば、南溜池土居通りに家中の召使や町家の者が「涼」み、すなわち納涼にやって来て、付近をくわえ煙管で通行し、花火等に興じることを禁じた。同文化十三年六月二十一日条においても、南溜池の土居通りでみだりに花火を行うことを禁じており、城下住民がくわえ煙管でこの付近を徘徊するのも禁じている。文化十年二月には、在府町・相良町・新寺町・鍛冶町・茂森町の子供や家中の召使が、南溜池の「氷渡(こおりわたり)」(の遊び)をするので危険であるから、やめさせるようにとの触書が出された(「国日記」文化十年二月五日条)。文政五年五月には溺死の危険があるため、南溜池での「浴水」を禁止した(同前文政五年五月二十八日条)。「国日記」天保十三年(一八四二)十一月二十七日条には、大円寺宵宮の時節に雑踏のなかで起きた喧嘩の記録があり、怪我をした町人の口書を載せている。現代でも大円寺宵宮の著しいにぎわいからして、当時の宵宮に押し寄せる弘前の人々の姿が想像されよう。また津軽地方における富籤(とみくじ)興行が、文化九年(一八一二)新寺町の慈雲院(じうんいん)など同町に所在する寺々で始まったのは、多数の群衆が集う南溜池の状況からすれば、決して偶然ではない。
 これらの事例を勘案すると、弘前の住民にとって、南溜池は夏は納涼や水浴に絶好の地であったし、花火等の娯楽も行われた。冬は南溜池付近の町方の子供にとっては「氷渡」の遊びがあって、南溜池は憩いの地以外のなにものでもなかった。南溜池における「雑喉釣(ざっこつり)」も藩庁から何度も禁止の触書が出されたにもかかわらず、いっこうに止む様子がみられなかった。南溜池での藩主の網入れによる漁もさることながら、「雑喉釣」も住民のかけがえのない娯楽であったからにほかならない。明治二十九年(一八九六)の『鷹ケ丘城』には、「夏は納涼に宜しく、秋は月を観、虫を聴くに宜しく」とあり、藩政時代の弘前の都市民にとっての憩いの場として南溜池は、近代に入ってからもほとんど変化がなかったようだ。