このように、藩権力により強制的に組織された農兵ではあったが、戦線の拡大と長期滞陣によって藩兵はしだいに不足し、特に明治元年十月の榎本艦隊による箱館奪取以降は農兵の必要も生じた。東洋一の威力を誇る榎本艦隊に対して藩が最も恐れたことは、長大な領内沿岸のどこかに上陸されることであった。時節柄、鰺ヶ沢等の藩の米蔵には年貢米が満杯になっており、これを奪取される心配は十分あった。そのため藩兵は西海岸一帯と、箱館と対峙する青森周辺に集中しがちで、他の重要拠点が一時的にせよ無防備になることがしばしばあった。この時に農兵は動員されたのであるが、明治元年十二月十六日の調べによると、実際に彼らが配置された場所は深浦に六一人、木造に六七人であった(「官藩出張調・中」『弘前藩記事』弘図八)。その他にも農兵が配置された場所には十三(じゅうさん)、小泊(こどまり)などの西海岸地方がみられ(同前)、派遣の目的は沿岸警備であった。農兵は直接軍事力として前線に送られたのではなく、あくまで藩兵の補助にとどまったのである。
幸いに榎本艦隊が農兵の守衛地を攻撃することはなかったが、彼らは解兵されることなく、明治二年春までの厳しい越冬を強いられた。農兵の賄料として藩では一日に米七合五勺、菜銭(さいせん)(副食代)銭六文を支給したが、元年末になると、当初配給されていたわずかな酒も停止され、待遇は悪化していった。また、いざ各地に出張してみると、隊員は官軍諸隊と比較して自分たちの姿がひどくみすぼらしいことに気づかされた。商人なども農兵をあざけり、士気はさっぱりあがらない。そこで農民たちの意をくんだ小隊指揮官は軍政局に上申書を出し、農兵隊を郷銃隊(ごうじゅうたい)と改称させ、隊中の帯刀役は買物役格、伝令役は長柄(ながえ)小頭格合、隊中は長柄之者(ながえのもの)格とさせて、最末端ではあるが藩制に位置づけて士気の高揚を図った(前掲「御軍政御用留」明治二年二月二十六日条)。
もちろん、農兵に認められた役格は在陣中に限られたもので、帰村すれば自然消滅したし、貸与された銃器も回収されたので、農兵の徴発は本質的に封建賦役と何ら変わることはなかった。よって弘前藩の農兵隊を、たとえば長州藩の奇兵隊と重ね合わせてイメージすることは誤りといえよう。