商社の収支実態

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それでは、こうした青森商社の諸活動はどれほどの収支を示していたのだろうか。その実態を示したと思われる史料が明治四年(一八七一)八月の年記を持つ「金銭請払場所勘定惣括」(弘図古)であり、表29はその記載内容をまとめたものである。これによると、①投入資本金は全体で二一万八〇三三両にも及び、明治初年の藩歳入の平均が約四五万両であることを考えると(本章第二節五参照)、これを藩がすべて現金で意したとはにわかに信じがたい数値である。もちろん、この資本金の中には西洋型商社の形態にのっとり、商人たちの拠出金も含まれてはいた。たとえば青森側商人は明治三年段階で合計六〇〇〇両を出しているが(「家内年表」明治三年八月四日条)、これに弘前側商人からの積金を合わせたとしても到底二一万両余には及ばない。財政逼迫(ひっぱく)に苦しむ藩がどのようにこのような巨費を調達できたのかは今のところ謎であるが、おそらくは④収入金で得られた一四万三五一三両に商人たちからの出資金を加え、あとは藩札で補ったものであろう。
表29.明治2年~3年青森商社会計一覧
細   目金額(両)
①投入資本金仕込元金・場所才覚金・荷物請払金217,804
諸色売買利潤221
その他8
小 計218,033
②支出金刎金其外弘前表江返上納・場所にて才覚金返済等60,216
場所表にて漁師外貸付金口々13,867
小 計74,083
③場所への仕込金貸付金116,048
所々出張人往来旅費3,857
高掛雑費5,528
出入税金1,946
買入荷物代金払2,898
場所にて筵買上代100
青森重吉船利尻行半運賃150
合銀打金并借金利息払109
幸来丸利尻島江積入荷物買上代金并税金6,516
小 計137,152
④収入金漁物上納122,783
越年貸7,317
囲 物9,895
有 物3,518
小 計143,513
注)「金銭請払場所勘定惣括」(弘図古)より作成。
 なお,表中金額歩以下は切り捨てた。

 続いて②支出金であるが、これは合計七万四〇八三両であり、内訳は刎金(はねきん)(返済金の一種か)や弘前への返却および場所における返済金が六万二一六両、場所の漁師たちへの貸付金が一万三八六七両となっている。そして③場所への仕込金は総計一三万七一五二両で、うち出稼ぎ人などの漁場労働者への貸付金が一一万六〇四八両とその大部分を占めている。あとは雑費や税金、必要物品代金などであるが、費目の中には利尻(りしり)に行く雇い船の代金などもみえ、古平(ふるびら)一帯(現北海道古平郡古平町)ばかりでなく、商社活動は蝦夷地の広範囲に及んでいたことがうかがわれる。この②と③がいわば①の投入資本金の配分を示しているが、②と③の合計は二一万一二三五両で、予備費的な金があったと想定すれば、ほぼ①の資本総計と合致する。
 では、このような元手によりどの程度の利益があったのだろうか。それが④収入金であるが、全体では一四万三五一三両とあり、支出総計に対して六万七七二二両の赤字となっている。また、①投入資本金に対してはそれ以上の七万四五二〇両の赤字となり、決して活動直後から大きな利益を上げていないばかりか、当時の財政事情を勘案すると重いマイナスとなっていた。
 ただ、青森商社が活動を開始した明治二年と翌三年は、前にも述べたとおり、箱館戦争による混乱のため流通経路が極度に乱れており、一般の商船の自由航行はかなり困難であったし、明治二年の凶作により需要がひどく落ち込んでいた時期でもある。そのためか、商社頭取の滝屋も「家内通観」の中で事務が暇なことをしばしば述べており(「家内年表」明治二年八月十五日条)、活動はまだ試行段階で、決して盛況(せいきょう)をみていたのではない。よって、長期的にみれば青森商社の活動は大きな利益をあげる可能性もあったし、次に述べるようにその活動に参加したいという民間の動きも十分察知できるのである。となれば、この表29の数値だけをみて、青森商社の活動は失敗であったと位置づけるのはやや早計(そうけい)に過ぎよう。