儀礼用の衣服には裃(かみしも)と袴(はかま)がある。これは一般農民に対してではなく、庄屋・組頭(くみがしら)(庄屋の補佐役)・裕福な者だけに着用が認められている(「国日記」享保九年十月十五日条にみえる倹約令第四条。資料近世2No.二一六)。その後、「国日記」寛政二年二月十一日条に記されている倹約令第二・三条には、郷士・手代・目見(めみえ)の許された者に対して、麻の裃は認められているが、裏付袴は禁じられていることがみえる。この規定は、前述のように幕末までに出された主要な倹約令に共通して記載されている。
なお裃の着用の時期については制約があり、寛保三年(一七四三)に、村役人層の農民に対して、藩主に直接ご挨拶する(御目見(おめみえ))場合、年始や節句および祝言のおめでたいときの年四回のほかは、麻裃の着用は許されていない(「国日記」寛保三年八月十六日条)。
儀礼用ではないが、羽織について付け加えておく。
羽織は庄屋・組頭・裕福な農民に対して着用が認められている(資料近世2No.二一六)。前掲の「国日記」寛政二年(一七九〇)二月十一日条の第四・八条によれば、郷士・手代・身上柄の者には許可しているが、夏は麻羽織のみとあるのは、その他の季節には麻以外に木綿の羽織が認められていたものと推定される。また庄屋は年間を通して麻羽織だけが許可され、一般農民は羽織の着用が禁じられていることが知られる。
以上のことから、裃・袴・羽織の着用は村役人層にのみ許可され、一般農民は禁じられていたのである。